漫才師ハイヒール・リンゴさん 父に認めてほしかった

著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は漫才師のハイヒール・リンゴさんだ。
――お母さんは食育に熱心だったとか。
「肉まんを食べたいというと、お手製の肉まんを作ってくれました。栄養管理を徹底し、自分で作ることへのこだわりが強かった。乳酸菌飲料のカルピスまで手作り。スーパー専業主婦でした」
――なぜそこまで力を入れていたのでしょう。
「祖母は会社を経営する、職業婦人でした。そのため、母はさみしい思いをしてきたみたいです。自分の子どもにはそんな経験をさせたくない。そう考え、子どもと長く一緒にいられる道を選び、愛情をたくさん注いでくれました。食育も、母が与えようとした愛情のひとつです」
「他方、父は仕事一筋。家事などは母に任せていましたが、しつけは厳しかった。犬の散歩中、リードを離してしまい、犬が逃げたことがありました。父はその時には何も言わず、犬を捕まえた後で私を叱りました。とっさに感情的になって怒らないため、余計に身に応えました」
――そんな両親のもと、お笑いの道へ進みます。
「当時はラジオのパーソナリティーを目指していました。吉本興業のタレント養成所の広告を見かけ、DJコースに目がとまりました。ここしかないと考え入学。しかし、ふたを開けてみるとDJというコースは消え、『その他コース』という名になっていました。今では笑い話ですが、むちゃくちゃですよね」
「3カ月分の授業料を払っており、DJでなくなっても辞めるに辞められません。そこで仕方なく漫才コースへ。でも最初の相方とうまくいかず、養成所を辞めようかなと考えました。もともと漫才師志望ではなかった訳ですから。けれどそんな時、今の相方のモモコに出会いました」
――漫才師になることに両親は賛成しましたか。
「父は『大学まで行かせてもらって、お笑いなんて』と大反対しました。自宅の2階から服を捨てられ、家を追い出されました。その後もずっと辞めさせたかったみたいです。父が伊丹空港で偶然、横山やすしさんに会ったとき、『娘を辞めさせて』と頼み込んだほどです」
「母も賛成していませんでしたが、認めてはくれました。26歳の頃、一緒にすしを食べに行った際に、母は黙って私に会計を任せました。娘の自立を認めてくれた瞬間で、とてもうれしかったです」
――その後、お父さんとは和解されたのですか。
「結局、父は亡くなるまで認めてくれませんでした。それでも、テレビは見ていたそうです。父が亡くなってから、母から聞きました。『お父さんはあんたのこと心配していただけ』と。それを聞いて、ホッとしました。私の活躍をひっそり見ていたなんて。けれど、生前に認めてほしかったですね」
[日本経済新聞夕刊2017年5月23日付]
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