慶応義塾大学教授・中村伊知哉さん 全て受け止めた母
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は慶応義塾大学教授の中村伊知哉さんだ。
――小2のときに静岡から京都に移り、母親、妹と3人暮らしを始めたそうですね。
「営んでいたクリーニング店が突然破綻し、夜逃げ状態で母の実家のある京都に移りました。6畳1間のアパートで3人暮らし。父とはその後疎遠になりました。両親は別れ、記憶も薄れています」
「母が亡くなる2年前、アパートの近くにおいしい焼肉屋があるという記事を読んで、喜寿のお祝いを兼ねて、アパートに行ってみました。母は『ようこんなところに住んでたなあ』と漏らした後、『でも、楽しかったね』と笑顔を見せました」
「母はいつも明るく、周りに人がたくさん集まってくるタイプでした。貧しい暮らしだったはずですが、苦労した思い出がないんです。小学校のときは先生に怒られるようなことばかりして、母はいつも学校に謝りに行っていましたが、『怒られたわ』と言うだけで、それ以上お小言はありませんでした」
「こうしなさいとかは一切言わないのですが、勉強をする環境はしっかり整えてくれました。京都教育大学付属中学校に入学するように勧められ、受験しました。試験で国語、算数、理科、社会はまったくダメだったのですが、音楽、家庭科、図工が抜群の成績で合格しました」
――中学に入ってからはよく勉強しましたか?
「中学から大学まで、家が貧しく学費免除で奨学金ももらっていたのですが、高校に入ると野球漬け。大学ではバンド活動ばかりしていました。でも、『好きにしよし』と認めてくれました。就職は地元で高給の銀行にでも入って親孝行すればよかったのでしょうが、上京して薄給の官僚になりたいと言いうと、やはり『好きにしよし』。留年して1年後に郵政省に入省すると、人一倍喜び、周りに自慢していたようです」
――お母さんの教育が自身の教育観に影響している部分はありますか。
「基本的に子供は育てるものでなく、育つものと思っているのは母親の影響かもしれません。僕は環境を整えることを役所でも大学でもやってきた。産学官連携の場作りをしたら学生が勝手に入ってきて勉強する。僕は教えることはできないんです」
「息子は2人とも、ITベンチャーに就職しましたが、母のような距離感で子供に接したいと心掛けています。どんなことがあっても受けとめてやりたいと思います」
「僕自身、大学4年になると、うらやましいと思っていた友人が家業を継ぐように言われているのを見て、だれよりも自由に育ててもらったんだと実感しました。母は脳梗塞で倒れてから亡くなるまで1年間、『ありがとうな』しか言わなくなりましたが、僕こそ感謝の気持ちでいっぱいです」
[日本経済新聞夕刊2017年4月18日付]
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