本州最北の農耕の始まり 弥生時代とはどんな時代か
歴史新発見 青森県鶴田町・廻堰大溜池遺跡
津軽富士と呼ばれる岩木山の東北麓に、津軽富士見湖と呼ばれる廻堰大溜池がある。溜池は1660年、津軽藩4代藩主、津軽信政により新田開墾の灌漑(かんがい)用として築造された。度重なる改修を経て、周囲は11キロにのぼり、約4.2キロの提長は日本一の長さを誇る。
現在も周囲に広がるリンゴ畑や水田の農業用水などとして利用されているが、秋が深まると管理上の問題などから水を抜く。昨年秋、同センター長の関根達人・弘前大教授(考古学)らが測量調査に出向いたところ、干上がった一部で「足の踏み場もないほど」土器などの遺物が散乱していたという。
北限での稲作の展開
廻堰大溜池からほど近い弘前市三和の砂沢溜池では、弥生時代前期の約2400年前~2300年前ごろの地形をうまく利用した畦畔のある水田跡が発見された。これまでのところ水田跡の北限で、縄文最末期と弥生時代をつなぐ標識土器となっている砂沢式土器が出土した。
この砂沢遺跡から南東に約20キロ離れた田舎館村の垂柳遺跡でも2100年前~2000年前の弥生時代中期の水田跡が見つかった。畦(あぜ)が碁盤の目のように巡らされ、1面は小規模ながら計656面もの本格的な稲作が行われていた跡が残っていた。それまで弥生時代に東北地方北部で稲作はありえないと受け止められていたが、決定的な証拠となった。1980年代のことだ。
廻堰大溜池では測量調査時に、砂沢式と垂柳遺跡で出土した「田舎館式」の中間の時代にあたる「五所式」土器などが見つかった。五所式は発見例が少ないため遺跡として貴重という。
砂沢と廻堰大溜池はともに岩木山の東北麓に位置し、距離的に近いだけではなく、山麓から流れ出す沢水によってつくられた川がそばを流れるなど地形的にも似通っている。一方、垂柳は津軽平野の中央の平野部に広がる。
関根教授は「稲作を始めた当初は砂沢や廻堰のような沢水を利用し沢地に水田を作っていたのが、やがて大規模な灌漑を必要とする平野部移行したのではないか、と推察。「砂沢で発見されたような水田跡が廻堰にもある可能性は大きい」と期待している。
弥生時代を巡る論争
弥生時代といえば、当然のことながら弥生式土器を用い、水稲耕作が行われ、金属器が使用された、という漠然としたイメージが強い。ところが全国各地で発掘が進むにしたがって、いわゆる弥生式土器と縄文式土器の区別が必ずしも明瞭ではなく、地域によって時間的なずれや特徴などに大きな差があることが分かってきた。
そこで、国立歴史民俗博物館の佐原真・元館長が弥生時代を「日本で食糧生産を主とする生活が開始された時代」(「農業の開始と階級社会の形成」)と1975年に提唱。現在も広く受け入れられ、主流の考え方となっている。
佐原元館長は弥生文化の領域については「青森県下で水田跡の存在が確認されたことによって、本州が北端に至るまで弥生文化の領域に属することは、いまや疑えない」(「弥生文化」)としている。
この弥生時代のとらえ方に関して様々な異論が提出されている。主な論旨は単に稲作だけに着目するのではなく、居住域と墓域の分離など社会的側面や、青銅器を用いる祭祀(さいし)の質的変化など精神的側面も考慮に入れ、総合的に判断する必要があるとの考えだ。
代表的な論者の藤尾慎一郎・国立歴史民俗博物館副館長は「単に縄文文化と時代を画するだけであれば灌漑式水田稲作の始まりを指標にすればよいが、弥生文化を同時代の東アジア各地の農耕文化や後続する古墳文化とも画するとすれば、それだけでは不十分である。生業構造の中における水田稲作の位置づけや社会的・祭祀的側面の特徴を明確にしてこそ識別が可能である」(『〈新〉弥生時代』)と主張する。
加えて藤尾副館長は「東北北部では紀元前1世紀には稲作が様々な理由から一度放棄された。再開するのは6世紀。こうした文化をもひとくくりに弥生と呼ぶことは無理がある」との見方だ。
今回の調査に参加している愛媛大の田崎博之教授(考古学)も同様の考えだ。「稲作が入ったからといって即弥生とはいえない。システム論的にみても、他の要素を巻き込みながらどう変化し、安定し、固定化していったかということをみなければならない」と話す。
こうした見解に対し、明治大の石川日出志教授(考古学)は「弥生時代を縄文時代と画すのは、灌漑稲作の開始というもっとも基底的な要素をもって定め、社会や祭祀の質的な変化はそれに続いて地域ごとに状況を変えながら徐々に進行した、とみる方が現実のデータとよく整合する」(『農耕社会の成立』)と生業の変化を重視し、各地域の特性や事情を幅広く受け入れるべきとする。
関根教授も「東北地方の北部でも縄文と弥生の間に大きな変化があったことは明らか。漆の技術やアスファルト、ヒスイなど縄文の大きな特徴である遠距離交易ネットワークが『弥生』になると衰退する。そうした変化の根本的原因は稲作農耕の受容がある。食料としての米への依存度は過大評価すべきでないが、稲作は社会を大きく変えた。砂沢以降は弥生と呼ぶべき」との考えだ。
水田跡を発見か
今回の一連の発掘調査では、水田稲作技術の成立と発達、伝播について詳しい宮崎大の宇田津徹朗教授(植物考古学)も参加。イネ科の植物がガラス質のケイ酸(プラントオパール)を多量に蓄積することに着目し、土壌を分析する「プラントオパール分析法」を用いて最北の稲作の実態を調査する。
宇田津教授は「プラントオパール分析法を利用することでどういう種類のイネか、生産量がどれほどあったかなど稲作の利用形態をデータで裏付けることができる。また、環境の変動にどのように対応したかなども探ることができる」と研究の目的を説明する。
今回の発掘調査の研究代表者を務める上條信彦・弘前大准教授は「砂沢と垂柳の間には約300年もの時間のひらきがある。この期間をどのように理解すればいいいのか長い間疑問とされてきた。廻堰はこの空白の期間をつなぐ遺跡。弥生の前期から中期にかけて、本州の最北で稲作がどのように展開したのか、理解を深めたい。また、これまで五所式土器もまとまって出いなかったが、今回は期待できる。この土地の文化を弥生といっていいのかとの議論があるが、検証したい」と、発掘調査の狙いを話す。
同センターによると、今回の調査でジオスライサーというボーリング機器を使って地下の土層堆積状況から水田跡探しをしたところ、現在の地表の下約2mの地点で水田跡の可能性のある土壌を発見。来年9月の調査までに採取した土壌中に含まれるイネ科植物のプラントオパールの量や土壌中の炭化物の年代測定などを進める。弥生の水田土壌の可能性があれば、当時の居住域とみられるあたりもあわせて調査する予定という。
(本田寛成)
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