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中村紘子さんのピアノ人生、ディスクでたどる

2016/8/2

2016年4月30日、ミューザ川崎コンサートホールで聴衆の歓声にこたえる中村紘子さん(中央)撮影=青柳聡(提供=東京交響楽団)

日本を代表する音楽家、ピアニストの中村紘子さんが7月26日に亡くなった。72歳の誕生日を夫で作家の庄司薫さんと、自宅で祝った翌日だった。転機は1960年代初頭。留学先の米ニューヨークのジュリアード音楽院でロシア人女性教師、ロジーナ・レヴィーンさんに「卵をつかむように手を丸め、指を立てる日本独特の『ハイフィンガー奏法』」の誤りを指摘されたときに訪れた。以来、小柄な体と小さな手の持ち主は少しでも美しく、輝かしく、豊かな音を生み出すための合理的な奏法を究め続けた。亡くなる前日も「モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試す」と庄司さんに、興奮の面持ちで語っていたという。国際コンクールの審査や文筆などを通じ、後に続く世代を教える側に回っても「あしき日本奏法の撲滅と、グローバルスタンダードへの接近」をつねに標榜し、日本のピアノ界全体の水準向上に全身全霊をささげた。

日本政府の外資規制緩和を受けた1968年、ソニーは米CBSと共同出資のレコード会社「CBSソニー」を発足させ、バリトン歌手出身の大賀典雄さんが社長に就いた。大賀社長は自身の体験も踏まえ、日本人演奏家の録音を積極的に手掛ける方針を打ち出し、当時24歳の中村さんと第1号の専属契約を結んだ。中村さんには、レコーディングアーティストとしても半世紀に及ぶキャリアがある。故人の足跡、芸風、偉業をしのぶにふさわしい5点を選んでみた。

矢代秋雄「ピアノ協奏曲」
岩城宏之指揮NHK交響楽団

今年は早世した作曲家、矢代秋雄さん(1929~76年)の没後40年。中村さんは矢代さんの代表作「ピアノ協奏曲」(67年)の世界初演者である。放送録音での初演は若杉弘さん、NHK交響楽団臨時演奏会での初演は森正さんの指揮。日本コロムビアは翌年に改めてセッションを組み、岩城宏之さんとN響の名コンビで万全を期した。岩城さんも今年は没後10年。ここに列挙した演奏家たちが素晴らしかったのは初演後も矢代作品を繰り返し演奏し、古典名曲に匹敵する定番の地位まで導いたこと。中村さんはバブル経済のころ、ある地方都市でスーパーをスポンサーに開催された「ニューイヤーコンサート」でもショパンやチャイコフスキーではなく、矢代さんの協奏曲を平然と奏で、なおかつ客席を魅了し尽くした。超絶技巧を求め、弾くだけでも大変な曲なのに、中村さんは持ち前の華やかなピアニズム、エレガントなたたずまいで、価値を高めたのだった。(コロムビア)

ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」ほか
渡邉暁雄指揮東京都交響楽団

ラフマニノフらと直接親交のあったレヴィーンさんの薫陶を受けて以来、ロシア音楽は中村さんの重要なレパートリーとなった。その後の旧ソ連への演奏旅行、チャイコフスキー国際音楽コンクールの審査員……という展開は大宅壮一ノンフィクション賞を受けた文筆活動での出世作、「チャイコフスキー・コンクール」(89年)に結実した。ロシア音楽を奏でる際に求められる息の長いフレーズ、感情の波動に応じて自在に揺れるテンポの妙を中村さんが比較的早い時期に体得していた実態は、渡邉さんが音楽監督を務め、日の出の勢いにあった時代の都響との76年録音でもはっきり確認できる。渡邉さんも日本の作曲家の守護神であり、自ら創立した日本フィルハーモニー交響楽団のために多くの新作を委嘱初演した。中村さんとは矢代さんのピアノ協奏曲でも共演したことがある。(ソニー)

ショパン「ピアノ協奏曲第1番&第2番」
アナトール・フィストゥラーリ指揮ロンドン交響楽団

中村さんは65年、ワルシャワの第7回ショパン国際ピアノコンクールで第4位と最年少者賞を得て以降、ショパンのスペシャリストと目される機会が増えた。2曲の協奏曲はそれぞれ2度の録音を残したが、84年7月にロンドンのアビー・ロード・スタジオで制作したこのディスクは第1番の再録音、第2番の初録音に当たる。フィストゥラーリさん(1907~95年)はウクライナ生まれ、英国に帰化した指揮者で作曲家マーラーの次女と結婚していた。ロシア・東欧の作品、特にバレエ音楽を得意とし、オーケストラを少し古風な響きに整え、旋律をたっぷり歌わせ、情感を自然に盛り上げていく。78年に読売日本交響楽団を客演指揮した際のソリストだった中村さんに強い印象を受け、ロンドン響との共演とレコーディングに発展した。中村さんはマエストロ(巨匠)の敷いたぜいたくな音のじゅうたんに乗って、ショパン特有のテンポの微妙な変化を自在に操りながら、美しいタッチの限りを尽くす。(ソニー)

チャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番」/ラフマニノフ「同第2番」
エフゲニー・スヴェトラーノフ指揮ソビエト国立交響楽団

ソニーは88年にCBSレコードを買収、クラシック音楽のレーベル名を国際規模で「ソニー・クラシカル」に統一した。ソニー本体の社長となった大賀さんが久しぶりにプロデューサーを買って出たのが、この日本でのライブ盤で、世界発売された。ともに中村さんにとって2度目の録音。モスクワ出身のカリスマ指揮者、スヴェトラーノフさん(1928~2002年)は65年に旧ソ連国立響のシェフに抜てきされ、連邦解体後にロシア国立響と改名した後も2000年まで音楽監督に君臨した。中村さんは83年にこの2曲を独奏して以来、87、90、92、95、97年まで計6度にわたり、スヴェトラーノフさんとロシア(ソビエト)国立響の日本公演のソリストであり続けた(97年にはスヴェトラーノフさんのN響客演でも共演)。雄大で、おおらかなロシア管弦楽の洪水に立ち向かうというよりは、自らもその一員として、独特の音の世界に浸りきる風情に指揮者との相性の良さ、ピアニストとしての円熟を実感させる。(ソニー)

モーツァルト「ピアノ協奏曲第24番&第26番『戴冠式』」/ショパン「マズルカ集」
山田和樹指揮横浜シンフォニエッタ

2014年、古希(70歳)とデビュー55周年を記念して企画した最新盤。残念ながら、長い盤歴のラストレコーディングとなった。中村さんはかねがね「私のキャリアを通じ、日本の指揮者の協奏曲伴奏能力は飛躍的に向上した」といい、若い世代と積極的に共演した。現在、モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務める山田さん(1979年生まれ)が東京芸術大学在学中に結成した「トマト・フィル」の流れをくむのが、横浜シンフォニエッタ。実演では長く弾きこんできたモーツァルトの協奏曲だが、セッションを組んでの正規録音は、意外にもこれが初めてだった。協奏曲で管弦楽が静まり、独奏楽器のソロだけになる部分を「カデンツァ」と呼ぶ。モーツァルトのピアノ協奏曲には作曲者自身のカデンツァが残っていないものも多く、後世の作曲家や演奏家が腕を競ってきた。第24番の場合、中村さんはN響との共演で自作を弾いた時代もあったが、このCDでは恩師の一人でハンガリー出身の名ピアニスト、リリー・クラウスさん(1903~86年)のカデンツァを採用した。「戴冠式」の方はレコード会社が話題性を狙ったのか、「ゴーストライター騒動」の果てに作曲家としての能力を再評価された新垣隆さんが新たなカデンツァを書き下ろした。(ドリーミュージック)

◇   ◇

2016年4月30日。ミューザ川崎シンフォニーホール(神奈川県)の飯森範親さん指揮東京交響楽団の演奏会で、中村さんは大腸がん闘病のための療養期間を終えての「現場復帰」を宣言した。選んだのはモーツァルトの第24番。第1楽章のカデンツァは自作でも、クラウス作でもない耳慣れないものだった。庄司さんに促されて楽屋を訪ね、「最初はモーツァルトに近かった音の世界が次第にロマン派の色彩を帯びていく。かなり変わったカデンツァでしたけど、いったいどなたの作曲ですか?」と聞いた。中村さんは「わが意を得たり」といった風情で「ふふふ、おもしろいでしょ。実はブラームスなのよ」と、タネを明かした。この作品が生涯最後に弾いた協奏曲になろうとは中村さんも、庄司さんも、私たちも思っていなかった。だが最後の最後まで好奇心を失わず、進歩し続けた名ピアニストの到達した境地として、不思議なほど、すがすがしさを覚える時間の記憶である。

(池田卓夫)

吉松隆:ファゴット協奏曲《一角獣回路》 /尾高尚忠:フルート協奏曲/矢代秋雄:ピアノ協奏曲

演奏者 : 馬込勇/小泉和裕/京都市響、ランパル/森正/読売日本響/中村紘子/岩城宏之/NHK響
販売元 : 日本コロムビア
価  格 : 1,234円 (税込み)

ラフマニノフ:P協奏曲第2番

演奏者 : 中村紘子
販売元 : ソニー・ミュージックレコーズ
価  格 : 3,154円 (税込み)

ショパン:ピアノ協奏曲第1番&第2番(期間生産限定盤)

演奏者 : 中村 紘子
販売元 : SMJ
価  格 : 1,080円 (税込み)

チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番&ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番

演奏者 : 中村紘子
販売元 : ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル
価  格 : 1,080円 (税込み)

モーツァルト ピアノ協奏曲第24番&第26番「戴冠式」/ショパン マズルカ集

演奏者 : 中村紘子
販売元 : ドリーミュージック
価  格 : 4,860円 (税込み)

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