うつ・たたく・音を旅する クセナキス「ルボン」
ソロの愉しみ(4)
革を張った、「うつ」楽器が演奏者のまわりにならんでいる。ヤニス・クセナキス《ルボン》。英語なら「リバウンド」、たたいて、はねかえってくるさまそのものがタイトルになっている。みぶりがありうごきがある。アタックがあり残響がある。反射神経が、距離と、空間とともにあらわれる。視覚性、臨場性ともにもっともつよく感じられるのは打楽器であり、それを奏する身体だ。
打楽器――雅楽の打ち物から来ているのか、字のならびだけみても、「うつ」が主だ。欧米語のパーカッションも似たようなニュアンス。うつ、たたく、はリズムに、ビートにかかわる。時を告げ、きざみ、分節し、アクセントをつける。おなじ「たたく」でも革を張ったもの、木、金属は違う。水や人のからだだってたたいたりする。素材はいくらでもあるし、たたくものもさまざま。
「きく」重要性
「うつ」だけでない。こする。なでる。ふる。ふれる。する。いや、もっとある。ふく、だって。ただ音をだすだけではない。楽器はもちろん、音具、玩具、廃物だってつかうことがある。すると、さがす、みつける、つくる、と、たえず「きく」ことも重要だ。音楽家は誰だって「きく」は大事だというのはあたりまえにしても、「きく」ことのあり方が違う。あ、はじめは楽器を中心にみていたはずなのに、いつのまにか、奏する側、奏する人に移行しているぞ。つまりは、楽器だけじゃなく、人と人の行為と切り離せないことが、あたりまえでありながら、浮かびあがってくる。
たくさんの種類の楽器を奏する。パーカッショニストの特異さはここにある。先に記したように奏法の多様さもさることながら、空間や時間の制御もほかに例をみない。たぶん視覚的にいちばん飽きないのもパーカッションだろう。
クセナキス作品のように限定された複数の楽器を用いる例もあれば、金属系楽器中心の八村義夫《ドルチシマ・ミア・ヴィタ》があり、さまざまなかたちがならぶシュトックハウゼン《ツィクルス》のような例がある。
打楽器の多様さがパーカッショニストをジャンルの束縛から解き放つ。アマゾンのジャングルに降る雨を現出させるナナ・ヴァスコンセロスを。この列島の自然の肌ざわりを喚起する富樫雅彦を。ピーター・ブルックの演劇作品で役者たちの演戯とともに音をからめる土取利行を。
弦楽器と打楽器
打楽器に対して、ピアノという楽器の一般的な認識度は高い。だが、ピアノの原型は弦を撥(ばち)でたたくものだ。弦楽器であり打楽器というハイブリッド。発音のアタックから、徐々に減衰してゆくまでの短くない時間を持てることも。
ピアノの音をいくつもいくつもペダルで重ねる(ドビュッシーのように)。打楽器としての側面を強調する(バルトークのように)。内部の弦にネジやゴムを挿(はさ)みこんで音色を変える(ジョン・ケージのように)。そんな20世紀の趨勢は、もしかすると、弦楽器と打楽器のハイブリッドとしての性格をあらためてこの楽器に想いおこさせる試みだったのかもしれない。
うた、の語源は「うったえる」だと、また「うつ」だと、いくつかの説がある。ひとつひとつが独立し、切れているかのような音が、つらなって「うた」を志向する。何かを「うち」「たたく」ことが憧れる「うた」、声を発して「うたう」が憧れる「うつ」ことの衝撃音。このあいだを探ってゆくことが、音楽の、音楽家の、ひとりで探らなくてはならない音楽家の「聴く」、そして奏する旅なのだとしたら――そんな夢想がソロをめぐっておとずれる。
(音楽・文芸批評家 小沼純一)
=この項おわり
[日本経済新聞夕刊2016年7月27日付]
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