「異形」の古墳、讃岐で確認 独特の石積みで造成歴史新発見 香川県高松市・稲荷山北端1号墳

2016/5/31
稲荷山北端1号墳イメージ図 高松市教育委員会提供
稲荷山北端1号墳イメージ図 高松市教育委員会提供

古墳というと、仁徳天皇陵と伝えられる大仙陵古墳(堺市)のように大規模な前方後円墳が思い浮かぶのが一般的だろう。香川県高松市の稲荷山北端1号墳は真ん中の円丘に南側と北側それぞれに四角い墳丘が接続する「双方中円墳」で、「異形」ともいうべき極めて珍しい墳形が昨年秋に確認された。しかも3世紀後半という古い時期に土ではなく石を積んで築いた「積石塚」。高松市は詳細な調査を7月から再開し、国の史跡指定を目指す。

全国の古墳は約20万基

JR高松駅から南西へ約2キロ。国の特別名勝「栗林公園」は、日本三名園といわれる偕楽園(水戸市)、兼六園(金沢市)、後楽園(岡山市)に勝るとも劣らない大名庭園として名高い。

この栗林公園は石清尾(いわせお)山塊を借景とする。石清尾山塊は峰山、稲荷山、浄願寺山で構成。百数十余もの古墳を抱える石清尾山古墳群で知られている。

「まさかこんな形をしているとは思っていなかった」。稲荷山北端1号墳を調査している高松市文化財課の波多野篤・文化財専門員は振り返る。

3次元測量調査で丸い円丘部と南側に三味線のバチに似た四角い方丘部があることは分かっており、前方後円墳とみられていた。ただ、北側にも地形の高まりがあるため昨年夏から秋にかけて調査した結果、円丘部の北側にも古墳の芯となる石材が連続して存在することが判明した。

これまでの調査で、円丘部の直径は約28メートル、丘陵の高い位置にある南側の方丘部の長さは約20メートルと確定。北側の方丘部の端がどこまで続くかはまだわかっておらず、今年度の調査で北側方丘部の大きさを確認する意向だ。

稲荷山北端1号墳は双方中円墳という極めて特異な形状をしていることが確認されたが、それがどれほど珍しいか。数字を見れば明らかだ。

文化庁が2012年度にとりまとめた調査では、横穴を含めた全国の古墳の総数は15万8905基。壊れてしまったものなどを含めるとざっと20万基以上とみられている。このうち約9割が終末期の群集墳で小さな円墳とされる。

古墳には四角い方墳や八角形をした八角墳もあるが、大きな古墳は前方後方墳、双円墳、双方墳など2つの小山で構成されているものが多い。地域の有力者や「大王」らを葬ったとされる代表的な古墳の前方後円墳は約5000基という。

双方中円墳は全国でわずか4基。うち3基が石清尾山古墳群にある。猫塚(墳長96メートル)、鏡塚(同70メートル)と今回の稲荷山北端1号墳だ。

円丘部は上、中、下壇の3段構造になっており、中段部分を北西側から撮影(高松市教育委員会提供)

讃岐の古墳に詳しい徳島文理大の大久保徹也教授(考古学)によると、古墳が造営された最初期の讃岐地域の古墳の形はすべて墳長が50メートルに満たない小型の前方後円墳だった。その数は約70基にものぼり、多数の首長が横並びで水平的連合体を形成していた様子がうかがえるという。この第1世代に続いて造られたのが双方中円墳だ。「それまでの横一線から関係が組み替わる中で生まれた墳形ではないか」と推測する。

双方中円墳で残る1基は奈良県天理市の櫛山(くしやま)古墳でほぼ同じ時期に造営された。ただ、櫛山古墳は猫塚や鏡塚と形状が大きく異なる。猫塚と鏡塚は円丘に対しほぼ同じ大きさの形をした方丘が2方向に翼を広げたように接続するが、櫛山古墳は前方後円部にもう一つの短い突出部を付けただけのような形をしている。

大久保教授は「櫛山古墳は、後円部に続く祭壇を造る試行錯誤の中で出来た形のようにみえる。石清尾山とは他人の空似ぐらいの関係で、相互の影響はないのではないか」とみている。

また、弥生時代の墳丘墓である岡山県倉敷市の楯築遺跡も双方中円墳の形状をしている。距離的な近さもあって、何らかの影響があったのではないか、との見方がある。

これについても「約1世紀隔てているとはいえ、関係があるなら吉備地方特有の特種器台や搬入土器など遺物や状況に関連する何かが残っているはずだが、連続性をうかがわせるものはほとんどない」と大久保教授は否定的だ。

讃岐の双方中円墳のもう一つの大きな特徴は、通常は土を盛って造成する古墳を、石という素材だけで造っていることだ。「積石塚」と呼ばれる。

稲荷山北端1号墳は「猫塚や鏡塚と比べ石の積み方が控えめで立体感に乏しいのが特徴」と波多野専門員。南側が高く北側に行くほど低くなるかなりの傾斜地にわざわざ石を積んだのは「方丘部をこちら側にも造ろうとしたためで、形に対するこだわりがあったのは確かだろう。ただ、双方中円墳という形で何を表現しようとしたのかは現在のところまだわからない」

稲荷山頂上付近に造られた稲荷山北端1号墳。休日には運動を兼ねた大勢のハイキング客らが訪れる

積石塚は石清尾山古墳群のほか、長野県の大室古墳群がよく知られている。世界中でみられる形式で、ロシア、モンゴルなどのほか鴨緑江沿いでかつて高句麗の都があった集安の積石塚はよく知られている。

もっとも、大室古墳群は石清尾山古墳群より200年以上も後から造られた上、形状などがまったく異なる。集安の切り石を積み上げたピラミッド状の遺跡などともかけ離れており、共通点はないとみられている。つまり、石清尾山古墳群の積石塚で造成した双方中円墳は極めて独創的な古墳ということになる。

不明な点が多い古代讃岐

古墳に注目が集まるのは、地域の有力者を葬っているからだけではなく、古代のクニづくりの過程が密接に関連しているからだ。前方後円墳という形式の波及が、急速に影響力を強めたヤマト政権と、各地のリーダーたちやリーダー間相互の関係を推測する大きな手掛かりと考えられている。

古代讃岐は全国的にみても高密度で前方後円墳が築かれた地域なのだが、実態はよくわかっていない。手掛かりが少ない中で、双方中円墳という独創的な古墳が生まれた背景について大久保教授は「前方後円墳という新しい形式を受け入れつつも、既存の要素と織り交ぜて独自の様式を編み出し、地域のリーダーが共有することで結束のシンボルとしたのではないか」との考えだ。

ただ、この独自様式も鏡塚を最後に姿を消したようだ。中央からの大きな流れに押し切られてしまったことは、次の世代以降が盛り土による前方後円墳や円墳ばかりになることからもわかる。

とはいえ、前方後円墳の地方への波及は決して単純に広がっていったわけではない。地域的特性が突出して表れた双方中円墳の様式や変遷を解明することは古墳時代前期という時代の特質を理解することにつながるのは間違いない。

高松市は7月から稲荷山北端1号墳の北側方丘部を中心に遺物がないか確かめながら発掘を再開。形状を確定させることで猫塚や鏡塚との比較を進め、讃岐地域にこつ然と現れ消えた双方中円墳の成り立ちの解明を進めていく。

(本田寛成)

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