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四年制大学卒の女性に対して大企業の採用門戸が開かれていなかった時代、アルバイト生活を経てブラザー工業に入社した石黒不二代氏は、そこで水を得た魚のように頭角を現す。だが、結婚を機に退社。宝飾品大手スワロフスキーの日本法人、スワロフスキー・ジャパンでマネジャーとなるも、長男出産をきっかけに渡米する。思い切った選択の裏には、どんな考え方があったのだろうか。

昔から勝負事は大好きでした。マラソンや水泳など、自分に打ち勝つスポーツは嫌い。相手がいると燃えるタイプなんです。

中学時代からずっと軟式テニスをやっていたんですけれど、試合の時はめっちゃ燃えました。アドレナリン全開。後衛だったんですけれど、早く勝負をかけたいと前衛にアタックしたがるから、コーチにはいつも「もう1本我慢しろ」と、よく言われていました。

ブラザー工業に入った時には、女子ラグビー部をつくったんです。ラグビー全日本の試合を見に行ったら、なんか面白そうだなと思って。物珍しさで取材がたくさん来ました。

上司は全員、10年以上の海外経験者 結果を出せばちゃんと評価

ネットイヤーグループ社長兼CEOの石黒不二代氏

ネットイヤーグループ社長兼CEOの石黒不二代氏

ブラザーはいい会社でした。当時から売り上げの9割が海外だったんです。私はそこで海外営業を担当しました。上司は全員、海外経験10年以上。女性でもどんどん仕事を任せてくれましたし、結果を出せばちゃんと評価もしてくれました。だから、すごくやりやすかったですね。

それでも、人事部は保守的でした。欧州に出張するために、上司が2人がかりで2日間掛け合い、ようやく認めてもらったほど。今ではちょっと考えられませんが、当時は会社が女性を長期海外出張させることさえ一大事でした。

そんな居心地のいい会社を退社したのは結婚が理由です。でも、本音を言えば、そろそろ新しいことに挑戦したかった。結婚相手が東京で働いていましたので、辞めなくてもいいように、と会社は東京のポジションをオファーしてくださったんですけれど、キャリアチェンジしたいという気持ちの方が強かったんです。

当時の専務がとてもいい方で、「何をやりたいの」と尋ねられ、訳も分からないまま「M&A(合併・買収)」と答えたら、外資系の投資銀行まで紹介してくださった。でも、結果的にはスワロフスキーを選び、そこでマネジャー職を経験しました。

息子を出産したのはその2年後です。帰宅するのは毎晩、午後7時か8時。コアタイムを終えてから保育園に迎えに行っても間に合わない。区役所に相談をしたら、「会社の近くで預けたらどうですか?」と言われました。「ゼロ歳児を満員電車に乗せろって言うの?」とギョッとして。そこから一念発起して猛勉強しました。「米国に行こう」と思ったんです。

なぜって? 単純に「こういうことは米国の方が進んでいるはずだから、米国で子育てしよう」と思っただけのことです。

常識外れの考え方だと言われますけれど、冷静にメリットとデメリットを比較してみれば、あのまま日本で子育てする方が断然、難しかったはずです。その後、別れてしまいましたけれど、夫はその時、仕事を辞めて一緒に付いてきた。今でも彼とはいい友達です。

シリコンバレーでは午後6時になれば、ノーベル賞受賞者も子供を迎えに

シリコンバレーに行ってよかったと思うのは、社会全体が子育てに対してすごく理解があったことでした。若い人はたしかに夜中まで働いていましたが、結婚している人は見事に午後5時を目安に帰っていました。保育園に子供を迎えに行くと、ノーベル賞学者が同じように子供を迎えに来る。日本じゃ考えられませんでした。

米国の大学は一度社会に出てから再び勉強する人も多くて、スタンフォードの場合はシングル、既婚、子持ちと別々の寮が整備されていました。シングルの場合は2、3人でリビングを共有するような感じで、既婚者は高層マンション、子供がいる人は中庭がある建物と、家族構成や生活スタイルに応じて分かれているんです。

私は運動場くらいの広さがある中庭で子供を遊ばせながら、学生生活を送っていました。治安も良かったですし、何よりも、子育てしながら学んでもいいんだと思える環境が用意されていることに、じんときました。

今、日本の保育園は時間延長の方向に向かっているようですけれど、あまり良くないと思います。長時間労働を前提に社会システムを組んだら、母親の体がもたなくなってしまう。それよりも、男性を含む働き方の方を見直すべきです。

米国の場合、上司が午後6時近くになって仕事を頼んだら、間違いなく部下に嫌われるでしょう。午後6時になれば、保育園も閉まっちゃう。ですから、仕事を途中で抜け出して、子供をピックアップしてから病院に戻るお医者さんもいます。シリコンバレーは特にそう。

これは現地で会社を起こしてからの出来事ですが、ある日、ミーティングの時間が思った以上に延びてしまい、午後6時を過ぎそうになったことがありました。会社の存続に関わるほど重要なミーティングでしたが、思い切って「申し訳ない、そろそろ子供を迎えに行かないと」と切り出したら、先方がこう言ってくれました。

「こちらこそ、気づかなくて申し訳なかった。あす、この続きをしよう」と。日本だったら、切り出すことさえ難しかっただろうと思います。

全ての技術を持ちながら、発想力で米国に負けた日本IT

シリコンバレーでのパーティーと言えば、フォーマルなものよりもバーベキューパーティーです。私は近所の友達の家で開かれたパーティーで、ヤフーの共同創業者、ジェリー・ヤンと知り合いました。後に、彼を日本に連れてきてビジネスマッチングをさせました。

日本の大企業は当時、優れた検索エンジンを持っていましたが、新聞社相手の商売しかしていませんでした。要するにBtoB(企業間取引)しか念頭になかったわけです。それをまったく違う発想とビジネスモデルで世界のユーザー相手に展開して行ったのがヤフーであり、グーグルでした。

1990年代のシリコンバレーでは現在、普通に使われているビジネスの種があちこちで芽を出そうとしていました。交流サイト(SNS)もネットオークションも、ビジネスモデルとしてはすでに考えられていました。日本企業はそこで使われている要素技術のすべてを持ってはいましたが、その技術を新しいサービスとして組み立てる発想力と、ビジネスとしてプロデュースする力、つまりマーケティング活動が欠けていました。

モノや技術を売ってナンボの発想から抜けられなかった日本と、それを使ってどんな新しいビジネスモデルを組み立てられるか、を考えてきた米国。ビジネスを通じて両国を行き来してきた私には、ある思いがあります。

ブラザーに勤務していたころから、日本のエンジニアは大好きでした。彼らが持っている純粋さやまじめさは一種の才能だろうと感じましたし、それに魅かれてIT(情報技術)の世界に入ったようなものです。

彼らの持つ才能をフルに生かして、もう一度、世界を"ぎゃふん"と言わせたい。国にこだわるつもりはない私にも、そういう気持ちは心のどこかにありますね。

石黒不二代氏(いしぐろ・ふじよ)
愛知県生まれ。80年、名古屋大学経済学部卒。ブラザー工業に入社し、海外営業を担当。結婚を機に退社して東京へ。87年、スワロフスキー・ジャパンにマネジャーとして入社。31歳で長男を出産。92年、米スタンフォード大学経営大学院に入学し、MBA(経営学修士)取得。94年、シリコンバレーでハイテク系コンサルティング会社を起業。99年、ネットイヤーグループの創業に参画し社長兼COO(最高執行責任者)に。同社の日本進出に伴い帰国し、2000年より現職。2008年、東証マザーズ上場。

(ライター 曲沼美恵)

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