逃れられぬ「私」探る 「最後の自画像作家」は問う
美術家・森村泰昌さん
ゴッホやフェルメールら西洋美術の大家や、彼らが描いた泰西名画の登場人物にふんした自画像を約30年にわたり制作してきた。西洋中心の美術史を相対化しながらも、そこから逃れられない苦悩を「私とは何か」という問いとして作品にする美術家は「最後のセルフポートレーター(自画像作家)」を自任する。
大阪・中之島の国立国際美術館で大規模個展「自画像の美術史―『私』と『わたし』が出会うとき」を開催中だ(6月19日まで)。1985年に発表した出世作「肖像(ゴッホ)」から最新作まで写真や映像作品など約130点を展示し、集大成と位置づける。副題の「私」は自画像でふんした美術史上の画家たち、「わたし」は森村自身を指す。
「肖像(ゴッホ)」は、耳からあごに包帯を巻きパイプを加えたゴッホにふんした。美術史上の「私」と森村の「わたし」が交わった瞬間だ。「当時は美術史を知らなかったし、勉強したいとも思ってなかった。美術というイメージからふと浮かんだのがゴッホだった」と振り返る。
国際的に脚光を浴びたのは88年のヴェネツィア・ビエンナーレと、翌年米国で開かれた日本美術展「アゲインスト・ネーチャー」。ヒトラー、モンロー、三島由紀夫ら20世紀の人物シリーズなど、現在まで同じスタイルを貫く。一方、活躍の場が広がるにつれ「僕が考える美術史は西洋美術史に他ならない」との疑念が頭をもたげてくる。
「日本画ではなく油絵に憧れ、印象派風の絵を格好いいと感じる自分を『何かおかしい』と思い始めた。自分のルーツを探っても日本美術につながらない。僕の感性は自然に備わったものではなく、戦後の美術史教育というある意味偏った環境で形成されてきた」。自らの感性の成り立ちを検証するかのような自画像は、こうして現代社会への鋭い批評となっている。
新作では自画像から抜け出し、何ができるかも自らに問いかけた。60分超の映像「自画像のシンポシオン」はゴッホやフリーダ・カーロら12人の歴史上の画家と森村自身が、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐(ばんさん)」を模してテーブルに並ぶ。
森村は一人ずつ画家に成り代わり、自分語りをする。「どの独白も僕の捏造(ねつぞう)。全部嘘だけど、なんか本当っぽいんです」と笑う。最後はキリストに対するユダのように森村が各画家への裏切り者を演じて幕を閉じる。
西洋の画家が自画像を描き始めたのは15世紀半ばとされる。「私とは何かという、人間らしい問いの始まり。その時代がずっと続いてきた」と指摘する。
しかし21世紀はテクノロジーが進化し、ネットが普及。「今や誰もが何にでもなれる。もはや服を着替える感覚で体を入れ替えるのもSFの世界ではない。自画像を描く時代は終わった」。こう喝破しながらもあくまで自画像に取り組むのは、「私」が希薄になっていく時代だからこそ、という思いがあるからだ。
個展の会場は迷路のように入り組んでおり、来場者を惑わせるかのよう。「僕自身がアイデンティティーについて悩みながらやってきた。私とは何かを改めて考える場になれば」
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アナログから見る未来
「自画像」は本物の絵画と見まがうほど構図や光の描写がそっくり。しばしばCG(コンピューターグラフィックス)で合成したと思われるというが、撮影セットや衣装、メークはすべて本物だ。「撮り直すとなると、何時間もセットの設営に費やさなければならない」という。
5月3~5日と6月10~12日、クリエイティブセンター大阪(大阪市住之江区)で開く関連企画「森村泰昌アナザーミュージアム」では、新作で使った撮影セットやメーキング映像を出展する。多くのスタッフが森村の体に手の込んだ仕掛けを施していく。舞台裏をのぞくことで、作品をより深く味わえそうだ。
「他者になりきるには必死でやらないといけないし、そこまでやっても自分の顔は取り換えがきかないものだと分かる。恐らくCGを使えば簡単にできる。だからこそアナログにこだわり、そこから未来を見つめたい。それが僕のやれることなんじゃないかな」とつぶやく。
(大阪・文化担当 安芸悟)
[日本経済新聞夕刊2016年4月20日付]
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