村芝居、人情届けヤス 素人劇団「福祉座」を30年
高桑金平
舞台に上がれば合羽をまとい足元は脚半。そして脇差し。こいつは飾りじゃねえぜと三度笠からのぞく眼光。「西春日井郡石橋村生まれの銀次郎、人呼んで、水場川の銀次郎と申しヤス」と私が名のればすかさず、客席から「銀次郎ー!!」と声が飛ぶ。
愛知県北名古屋市を拠点に活動する素人劇団「福祉座」を立ち上げて30年近くになる。座員の総数は約80人、スタッフも10人近くに上る大所帯だ。江戸時代の人情物を専門とし、愛知県内のみならず県外でも公演を行ってきた。水害などの自然災害やおれおれ詐欺被害の啓発。芝居には地元の方が身近に感じられる場面を織り交ぜている。
尼さんが親代わり
場面は代わって、ここで回想シーンを入れよう。私は3歳の頃に脊髄カリエスを患い、全く歩けなくなった。遅れて入った小学校は母親に負ぶわれて登下校した。後に戦病死した父親は戦地に赴き、生活は女手一つの苦労の最中。首の回らぬ母親に手をさしのべたのが私の同級生や先輩。学校の送り迎えや学校生活の世話までしてくれた。家の裏手には尼寺があり、尼さんは私の親代わり。忘れられない恩だ。
17歳。中学卒業後は手に職があったほうがいいと、仏具職人に弟子入り。背骨の湾曲が後遺症として残ったものの、大人になるにつれ歩けるようになった。仕事の傍ら地域へのお返しになればと、障害者団体の役員や民生委員のほか、地元の子供会の世話に関わる。そのつながりで村芝居の公演に出ないかと、当時西春町(現北名古屋市)役場福祉課の係長、新安哲治さんから誘いを受けたのが1987年。何でも都市公園の整備に伴うイベントだという。
郵便局でも座員勧誘
かつて盛んだった村芝居は子供にとって唯一の娯楽だった。歌舞伎の「白浪五人男」や長谷川伸の戯曲「瞼(まぶた)の母」……。村々の青年団が農閑期に、神社の境内などで打った手作りの芝居だ。私の村では伊勢湾台風以降、若者が外に働きに出てしまい、自然消滅してしまった。当時の地元の熱気をよみがえらせたい。
そこで町民有志の劇団を立ち上げたのが87年。新安さんが脚本「新編瞼の母」を書き、2年後にくだんの公園で旗揚げ公演。私はやくざの子分役で切られてすぐ死んだが、芝居は年配者が最前列でかぶりつき涙ぐむほどの大盛り上がり。もうやめられない。
劇団を再結成して臨んだ第2回公演からは私が座長に。役者やスタッフは、新安さんと2人で集めた。例えば、貯金に行った郵便局。窓口の人に、ところでと声をかける。「芝居に出ませんか?」。大道具には、名古屋市の老舗劇場「御園座」の裏方経験者を迎え、衣装には着付け教室の先生。照明や音響はプロに頼んだ。役者は素人でも舞台は本格的。92年、旧西春町文化勤労会館のこけら落としとして上演した「男涙の渡り鳥」は1300人の大入り。近所の人が出演するとあって、見に来るわ見に来るわ。おひねりも舞台が真っ白になるほどに飛び交った。
「助け合い」知って
私が演じる当劇団定番の主役、旅がらすの銀次郎の初登場は96年上演の「岩倉街道はぐれ旅」から。会場入りすると色紙を手にしたファンの姿も多く、舞台でお決まりの「必殺仕事人」テーマ曲が流れるとなぜか笑い声。ともかく、現在理事長を務める障害者施設の方、また介護施設のお年寄りが大勢見に来てくれるのは有り難い。一生懸命作ってくれたおひねりが飛ぶと、もう涙、涙。
入場者数のピークは2005年に開かれた愛知万博の頃。それよりは減ったものの、今でも毎回400人ほどの観客が集まってくれる。現代は田舎でも近所付き合いが減り、隣は何をする人ぞ。さらに、娯楽も多様化し、村芝居復活との目標はどんどん難しくなっている。それよりも、人情物の芝居を通してみんなが助け合っていた昔の世相を知ってほしいと願うようになった。
7月10日に予定する公演の演目は「岩倉街道 寅の大変泣き笑い」。安政の大地震に材を取り、津波のあった岩倉街道沿いに住む人たちが力を合わせて生きる姿を描く。障害を持っていると、引きこもってしまう人もいる。自分にできることは、とにかく舞台に立ち続け楽しんでいる私の姿を見てもらうことだ。
舞台の上で死ねたらいいが、それも迷惑か。今度の銀次郎の決めゼリフはこの通り。「命の恩人には、生涯かけて報いる。これがアッシの生き方なんでゴザンス」。
(たかくわ・きんぺい=福祉座座長)
[日本経済新聞朝刊2016年4月14日付]
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