英国での修業を支えたハインツの豆缶詰 熊川哲也さん
食の履歴書
世界的バレエダンサーの熊川哲也さんは15歳で英国に渡り、ダンサーとしてまたたくまに頭角を現した。観衆を魅了する驚異的な跳躍力や豊かな表現力は鍛え抜かれた肢体があってこそ。修業時代を支えたのは英国ではごくシンプルな食べ物だった。
「ロンドンで家にいつもあったのはハインツのベイクドビーンズ。日本で久方ぶりに食べた時は懐かしかった」
ベイクドビーンズはインゲン豆をトマトソースと砂糖で煮込んだ代表的な英国料理だ。水色のパッケージが特徴的なハインツの缶詰には、トマトソースが豆にとろりとしたたる絵が描かれている。
バレエ学校時代、ホームステイ先の家の食事の「あまりのまずさ」にうんざりしていた。友人の家でベイクドビーンズを口にした途端、思い浮かんだのは故郷の札幌で毎朝、食べていた納豆だった。「豆なのになんでトマトペースト?」と最初は不思議に思ったが、トーストにのせるととろけた豆がほどよくしみる。「うまかった。衝撃を受けた」
ロンドンでホームステイしたのはバレエ学校の女性教頭の自宅。60歳前後の彼女とその父親と暮らしていた。子どもがいなかったから、育ち盛りの男子生徒の食欲に想像がいかなかったのだろう。出てくるのは塩分で味付けしただけのあっさりした料理ばかり。だから小腹がすくと自分でハインツの缶詰を温め、空腹を満たした。
ホームステイは1年で終え、翌年から友人たちとハウスシェアをした。バレエ学校の友人宅では毎週末、どこかでパーティーが開かれた。深夜まで皆でどんちゃん騒ぎをしてそのまま雑魚寝し、朝起きたら皆でベイクドビーンズとトーストを食べた。「皆、お金もないし、おいしいものを知らなかったから飽きずに食べられたんでしょうね」
持論は「おいしさはお金に比例しない」だ。
バレエ学校に入学した初日か2日目のこと。中華レストランの多いロンドン・ソーホー地区にある中華の名店「プーンズ」に先輩に連れられていった。バーベキューポークライス(日本の焼き豚丼に相当)を「入学記念に」おごってくれるという。日本円で数百円の料理だったが「本当においしくてペロリと食べた。いまでも忘れられない」。
バレエ学校に入っても誰もがプロ契約できる世界ではない。バレエ団と無事契約をとれる者がいれば、ミュージカルへ転身する者、ダンサーの夢をあきらめて庭師になった者だって友人にはいた。しかし皆が納得する才能を持つ若者は必ずいる。熊川さんがそうだった。
10歳でバレエを始め、15歳で渡英。バレエ学校には飛び級で入学し、翌年、16歳で東洋人として初めて世界三大バレエ団の一つとされる英ロイヤル・バレエ団と契約。4年後には最高位のプリンシパルに昇格した。野性味たっぷりの跳躍や踊りにロンドンの観客は拍手喝采した。「人材流出を防ぐために契約したのでしょう」と語る。
若手ダンサーの登竜門と言われるローザンヌ国際バレエ・コンクールに日本人で初めて優勝した。「クマカワが優勝すると周囲の誰もが予想していた」と自身で分析する。英国のバレエは伝統的、古典的な振り付けだ。内心ではダンサーの自由を尊重する米国の前衛的なダンスに引かれて渡米しようと思っていた。だから優勝の前にロイヤル・バレエ団は契約を提示した。
栄誉ある王立バレエ団のトップダンサーともなると年3~4回は正装で王族たちと食事をともにした。しかしそんな華やかでセレブな非日常の時間以外では、ただの20代の若者に戻った。だから普段の食事は「B級グルメばっかり食べていた」。
舞台のカーテンが閉まるのは夜の10時半。化粧などを落として帰宅すると、深夜0時をいつも回ってしまう。晩ご飯は帰る途中にチャイナタウンに寄ってチャーハン、焼き豚丼、唐揚げなどをテークアウトした。今も海外公演にいくとホテルのフロントに、その国のチャイナタウンがどこにあるかまず聞く。
ダンサーともなれば、美しい健康的な身体を維持する食事制限がときには必要ではないかと聞くと「ストイック(禁欲的)に頭で考えるような人間に、いいダンサーはいない。おいしいかどうか。動物的な感性、本能に任せるんです」と返ってきた。40代の今になっても、野趣あふれる規格外のダンスそのままに、食べることにも自由奔放だ。
【最後の晩餐】 おいしい極上のラーメンスープ、こってりだけどのどに優しいスープが飲みたい。濃厚な「家系ラーメン」に一時期はまったことがありますが、最後はおいしいスープを一口すするだけでいい。スープがのどを通って胃にしみわたる瞬間を味わいたい。
食欲そそるスッポン鍋
東京・六本木にあるスッポン料理の「さぶ」は20年来の行きつけだ。「火山のマグマのように、ぐつぐつとゼラチンなどが煮えたぎった鍋をみると『さあ食うぞ』という気にさせられる」と熊川哲也さん。コース価格は2万2千円(税別)。安くはないが仲間を連れて週に2、3度通う時もあるという。
スッポンの身とショウガだけでスープの味を出す。「野菜などを入れる店もあるが水っぽくなる」(店主の草深大介さん)との判断からだ。
にぎりずしや手羽先などが出た後に、ぐつぐつ熱せられた土鍋が木のトレーに載って運ばれてくる。濃厚、芳醇(ほうじゅん)なにおいがプーンと広がる。「脂のついた部位を敬遠する人もいるが、ウナギと同じでヘルシー。熱々を召し上がってほしい」(草深さん)
(木ノ内敏久)
[NIKKEIプラス1 2021年1月30日付]
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