なぜ年末に「第九」? きっかけはN響のラジオ放送
暮れが近づくと、日本各地のオーケストラで盛んに演奏されるベートーベンの「第九」。実は日本以外ではあまり見られない風習だという。なぜ、年末に第九を聴く文化が根付いたのだろう。
「第九」と呼ばれるのは、ベートーベンが作曲した9番目の交響曲だから。交響曲には珍しく、第4楽章に独唱と合唱のための歌詞が付いているため交響曲第9番「合唱付き」と表記される。
第九の日本初演は今から100年前の1918年。第1次世界大戦時、徳島県板東町(現鳴門市)のドイツ人捕虜によるもので、アジア初だった。今では多くの楽団が12月に第九を取り上げ、有名な指揮者や独唱者らによる華やかな趣向を凝らす。歳時記を開くと「第九」は冬の季語にもなっているほどだ。
だが、師走に「第九」というのは現在の欧米諸国にはない習慣だ。音楽ジャーナリストの岩野裕一さんに、日本で広まった理由を尋ねると「NHK交響楽団が暮れに演奏したのが出発点だと思います」と返ってきた。
時は帝政ドイツ末期1918年。革命で皇帝の退位を受け、ライプチヒのゲヴァントハウス管弦楽団が大みそか深夜に労働者に向けて第九を演奏した。これが大変好評で、同様の催しが活発に開かれるようになった。
そうした演奏会を指揮した一人が、後にNHK交響楽団の常任指揮者を務めたヨーゼフ・ローゼンシュトックだ。36年にナチスによるユダヤ人迫害を逃れて来日、ドイツでの経験をもとに、38年12月、東京の歌舞伎座で第九を指揮した。40年の大みそかには、ローゼンシュトック指揮の第九をNHKラジオを通じて放送。太平洋戦争開戦後も年末年始の放送は続けられた。
43年末には、学徒出陣の学生のために東京音楽学校(現東京芸術大学)で第4楽章「歓喜の歌」が演奏された。人類愛や友情を高らかに歌い上げるこの曲を、戦地に赴く若者たちはどのような思いで聴いたのだろう。
戦後はラジオ放送だけでなく、N響の第九演奏会も年末恒例に。「オケがない街でも放送を通じて第九が聴けるようになり、第九の習慣が広まった」と岩野さんはみる。
一方、少し実利に根ざした別の説もある。楽団の「餅代稼ぎ」説だ。戦後各地で増えたオーケストラ。運営に困窮していた楽団が年越しの資金を得ようと人気の高い第九に着目したという。合唱団も出演するので、その家族や知人らも切符を購入すれば収益につながると考えられた。
戦後の復興と同時に、音楽鑑賞団体などによる合唱運動やコンサートが活発になり、そこで演奏されたことも普及を後押しした。ドイツ語ではなく「晴れたる青空」で始まる日本語の詩でも歌われたという。
東京交響楽団の桂冠(けいかん)指揮者の秋山和慶さんは78年からほぼ毎年末、同楽団で指揮してきた。「新しい年に向けて気持ちを切り替える時、ベートーベンの力強い音楽にパワーをもらう人は多い」と話す。
「20~30年前は今よりも盛んで、11月末から演奏していた」と秋山さん。400回以上は指揮したが、今も第九を振る前にはべートーベンの第1番から順に楽譜を研究してから臨む。「畏敬の念をもち真摯に楽曲と向き合うと、時に思う以上の演奏になる」
耳が不自由になってなお、ベートーベンは作曲を続けた。不屈の精神から生まれた第九は、困難に立ち向かい、平和を願う場面にふさわしい。欧州統一の象徴として「歓喜の歌」が採用され、日本では五輪や万博などで演奏されてきた。東日本大震災後のチャリティーコンサートでも多く聴かれた。国家間の衝突や天災など暗いニュースが絶えなかった2018年。今年の第九は人々の心に、どのように響くだろうか。
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「病魔に勝つ」生きる希望に
聴くだけでなく歌いたい。「第九」はアマチュアコーラスでも人気だ。がん研究会(東京・江東)はがん患者やその家族らが歌うチャリティーコンサートを来年1月29日に開催する。演奏は藤岡幸夫指揮の日本フィルハーモニー交響楽団だ。
練習に通う会社員の風間沙織さん(54)は4年前、乳がんになった。「死ぬまでに第九を歌ってみたい」と参加。歌うのが幸せで、3つの第九合唱団を掛け持っている。「生きる希望」を感じるという。同じくがんを患う妹にも勧めたらとりこになった。「いつか妹とウィーンまで、ベートーベンの墓参りに行きたい。『こんなに楽しく生きている』と伝えたい」と声を弾ませる。
(関優子)
[NIKKEIプラス1 2018年12月1日付]
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