アジア通貨危機に直面 損失膨らみ胃が痛む思い
DIC社長 猪野薫氏(下)
東南アジアの経済発展を肌で感じた(インドネシア駐在時、中央で座っているのが本人)
1997年、シンガポール子会社の課長になる。
シンガポールで家探しをしていたころ、タイ・バーツが急落しました。アジア通貨危機の始まりです。あっという間にインドネシア・ルピアにも影響が広がりました。もう自分の判断を超えていましたね。本社に指示を仰ぐ間に損失が膨らんでいき、胃に穴が開きそうでした。
過去の経験から、通貨は下落しても半分にはならないという安心ラインを自分で作ってしまっていました。インドネシアに赴任したとき、1ドル=2400ルピアだったのが、最高で2万ルピアまで下がる経験をしました。
当時シンガポール子会社は樹脂事業部が統括し、本社統括ではなかったことが急落する為替への対応が遅れた要因です。その後、シンガポールは本社直轄になり、組織再編のため樹脂事業の社員は日本に帰国することになりました。
帰国後、中国企業との交渉で困難に直面する。
中国企業との合弁を解消する話があり、交渉責任者として現地に出向きました。ふとした失言で相手を激怒させてしまい、社内で決めていた期限内にまとめるのが困難になりました。
焦りが募る中、あえて通訳を介さずホワイトボードに合弁解消に向けたスキームを書き込みました。身ぶり手ぶりで図を説明したところ、こちらの意図が通じたのか何とか合意にこぎ着けました。
帰国するとき、相手企業の責任者から「交渉とはこうやるんだ、ということを教えられた」と笑顔で握手を求められたことが、今でも忘れられません。
樹脂海外統括本部の課長に。
樹脂事業の経営戦略のとりまとめを命じられました。母体のインキ事業を拡大させつつ、樹脂事業をどう伸ばすか。週明けの月曜日の経営会議に向けた資料を作り終えたのは土曜日の朝6時半。バイク便で会議出席者の自宅に送り届けました。会議では無事、提案を通すことができました。