漫画家・平田弘史さん 孤高のペン、真剣のごとく
いかに生きるか 時代劇画で表現
徹底した時代考証を重ね、底辺に息づく下級武士らの壮絶な生きざまを迫真のペンさばきで表現する時代劇画の第一人者、平田弘史。「人は如何(いか)に生きるべきや」をテーマに、孤高の創作を続けてきた。
生誕80年と画業60年を記念し、原画や関連資料など約300点でその軌跡をたどる初の本格的な個展「平田弘史に刮目(かつもく)せよ」が東京の弥生美術館で開かれている(3月26日まで)。時代劇に懸けるストイックなまでの探究心はどこから生まれ、いかに持続させてきたのか。静岡県伊東市の自宅兼仕事場に本人を訪ねた。
「毎作命がけで描いてきたから、仕事は地獄のようなものだった」。60年を振り返り、好きな作品を尋ねたら、こんな答えが返ってきた。「だからどの作品も代表作で、優劣は付けられない。描き上げたらもう次を考えていたから、振り返る余裕もなかったね」
一晩で描き上げた第一作「愛憎必殺剣」に始まり、血みどろの復讐(ふくしゅう)劇が発禁処分にもなった「血だるま剣法」、限界を超える精神力で通し矢に挑戦する「弓道士魂」、敵同士として再会する父子の壮絶な関係を描いた「無双奥義太刀」。血しぶきが上がり臓物が飛び出す陰惨な決闘描写や底辺を生きる者たちの凄(すさ)まじいまでの人生譚(たん)の数々。ときに「残酷だ」とのそしりを受けつつも、貸本漫画から劇画誌へと発表の場を変えながら多くの大人読者の支持を集めていった。
作品の質を支えているのが徹底した時代考証だ。「たとえば武士の家紋や刀のそり方はどうだったか。武士の裃(かみしも)は戦国時代と徳川時代では肩幅が違う。そうしたことを図書館に通って史料で徹底的に調べ、勉強した」。古い写本の類いを読破するため、1冊ごとにくせの異なる文字を解読した写本辞典も自分で作った。
物語のネタも、小説や他の漫画作品などまったく参考にせず、史料をヒントに独自に探した。「人生いかに生きるべきかがそもそもの自分のテーマ。大問題を扱っているから、流行など追うひまがない。求める道をまい進し、自分が喜ぶ作品が描けたらそれでよしと思っていた」
そうした史実の掘り起こしから数々の傑作が生まれた。合戦のさなか金と引き換えに命乞いをした武士の手形を戦後、代理人となって取り立てに行く命知らずの「首代引受人」。徳川の幕命により、遠く離れた木曽の治水工事に赴く薩摩武士たちの極限の苦悩を描く「薩摩義士伝」。戦乱の世に名を挙げた黒田官兵衛の父祖直伝の秘策を取り上げる「黒田・三十六計」。これらは「十分に手が動き、ペンタッチの扱いも熟達の境地にあった」と自賛する。
平田作品はいずれも底辺を生きる下級武士たちが主役。「その理由は、やっぱり自分の生い立ちにある」。終戦間際、空襲で東京から焼け出され、奈良に疎開。4畳半の部屋に親子8人で暮らした。「家も近所も貧しい人ばかり。でも互いに助け合って生きていた。そうした底辺の人々の本当の心、彼らの血と汗と涙が作る歴史は下級武士を通してでないと描けない」と。
真剣のごとき一本筋の通った登場人物たちの生きざまに、人生で培ったヒューマニズムが宿っている。
◇ ◇
右手に不具合 再起誓う
17歳で父を亡くし、長男として一家の生活を背負うことになって間もなく、悪性の虫垂炎に。七転八倒の苦しみの中、「蘇生できなくなる」との理由で麻酔なしの開腹手術をした。そのときの臓物を動かされる感覚が、かの三島由紀夫も絶賛した迫真の切腹描写に後に生かされた。
そんな逸話を知り、作品を読むにつけ、ストイックな求道者像を思い浮かべて緊張した。だが、案に相違して実際の平田氏は好々爺(こうこうや)然とした紳士。しかも若いころから機械工作や電子部品いじりが趣味という根っからのインドア派だった。
「まるで予想しなかったが、3年ほど前から右手に不具合が出て満足に描けなくなった」と打ち明ける。そのため今は開店休業状態。下絵にペン入れをできずにいる「黒田・三十六計」の原稿が眠っている。作品を待つファンのため「4月には手の専門医に見せたい」。早咲きの河津桜を庭に眺めつつ、再起を誓った。
(文化部 富田律之)
[日本経済新聞夕刊2017年3月1日付]
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