炸裂志 閻連科著
大金と引き換えに「市史」書く
1958年生まれの現代中国の鬼才・閻連科の小説は、近年相次いで邦訳されている。大いに歓迎すべきことだろう。ときに当局から発禁処分を受けながら、暴力と汚穢(おわい)、性愛と権力の渦巻く中国の現実をつかみとろうとするその作品群は、いささか貧血気味の現代文学に強烈な活を入れるものだ。
本書『炸裂志』の原著は2013年刊行。架空の「炸裂村」(深圳を1つのモデルとする)が大都市へと急速に発展するさまを、市長の孔明亮(コンミンリャン)一族を中心に「地方志」(ある地域の総合的資料)のスタイルで描いた長編小説である。中国のネット上の著者インタビューによれば、「炸裂」とは改革開放以降の中国の比喩であり、たんに社会の爆発的な変化だけではなく、人間の心や関係、階層の「分裂」も暗示している。
このでたらめに引き裂かれた世界では、文学も無垢(むく)のままではいられない。本書の冒頭には閻連科自身が作家として登場し、大金と引き換えに炸裂の市史を執筆することになった経緯をあけすけに語る。つまり『炸裂志』そのものが金と権威の産物というわけだ。しかも、著者の仕掛けた最後の演出のせいで、この地方志が本物かも怪しくなってくる。文学と歴史をメタフィクション的に笑い飛ばすブラックユーモア!
もっとも、破天荒な想像力を駆使した代表作『愉楽』に比べれば、本書の書きぶりはいくぶん抑制的である。資本主義の荒波に突然投げ込まれた地方都市から、いかなる人間が生み出され、その生死や愛はいかに変容したのか――、これらの問いが売春や葬儀、農民デモなどのテーマを介して、いわば生態学的に深められていく。
むろん、閻連科の文体は平板なリアリズムとは明らかに異質である。巻末のエッセイ「神実主義とは何か」を読めば、彼が「道理では説明することのできない真実」を捉えようと苦心してきたことがよく分かる。まともな均衡を失った現代中国の「真実」と向き合うには、ときに突拍子もない設定やどぎつい描写が必要なのだ。
こうした創意工夫はほぼ同世代の莫言や余華らにも通じるし、もっと遡れば晩年の魯迅の問題作『故事新編』をも思わせる。中国の骨太の文学的想像力は、暴力や汚穢からも決して目を背けない。理性を麻痺(まひ)させる「爆発」と「分裂」のただなかで、リアルな歴史を浮かび上がらせる閻連科の力業を、とくとご覧あれ。
(文芸評論家 福嶋 亮大)
[日本経済新聞朝刊2016年12月11日付]
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