サーカス学校、夢の懸け橋 ウクライナ仕込みの技伝授
沢入国際サーカス学校講師 ティシェンコ・ナジェージダ
群馬県東部のみどり市。渡良瀬川が流れる山あいの町に私の職場がある。廃校になった小学校の体育館を利用して作られた「沢入(そうり)国際サーカス学校」。現在、5人の生徒が在籍し、ジャグリングやアクロバットなどを学んでいる。私は2001年の開校時に母国ウクライナから来日し、16年間指導を続けている。
学校は4年制。9~12月の前期と3~7月の後期があり、休みの期間はウクライナに戻る。入学の条件は中学を卒業していて、自炊して生活することができること。
生徒は20代前半から30代半ばまで。私を含め、学校の近くで空き家を借りて暮らしている。平日の午前はアクロバット、午後は自主練習に当てている。課題に取り組む生徒を見て回り、気になる点を指導している。
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柔軟性やバランス養う
日本に来た当初は、ウクライナの生徒との違いに驚いた。ウクライナはスポーツが盛んで、小さなころから体操を学ぶ機会が多い。マット運動や柔軟、筋肉トレーニング、逆立ちなど、サーカスを学ぶ生徒はほとんど基礎ができている。しかし、日本ではほぼみんな経験がなく、体は硬く、バランスも悪かった。
基礎ができていないとアクロバットの技は美しくできない。足を真っすぐ長く見せるためには柔らかい体が必要だし、筋力がなければ、人を支えたり、投げたりできない。そのため、基礎体力作りに多くの時間をかける。
ウクライナではコーチが大声で指導するのは当たり前だ。しかし、日本人は心が弱い。すぐにしゅんとしてしまう。初めは厳しく叱ることも多かったが、長い間かけて指導法を色々試し、今はあまりうるさく言わないようにしている。生徒が自分で考え、質問してくることも大切だと思うようになったためだ。
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3度世界チャンピオン
私は9歳から始めた体操の選手だった。生まれた頃、ウクライナはソビエト連邦に属する社会主義国家だった。体育の人材育成にも熱心で、スポーツを学ぶ場がたくさんあった。体育大学に進んだ21歳のとき、コーチの誘いを受けアクロバット体操の選手に転向した。
アクロバット体操は床運動のマットを舞台に、倒立や宙返りなどの技に音楽や踊りを組み合わせた競技だ。女性だけ、あるいは男女一緒に、2人から数人で行う。選手として世界各地の競技会に参加し、世界チャンピオンにも3度なった。
サーカスとはかなり似た部分があり、選手がサーカスのパフォーマーになることは珍しくない。私も31歳で引退後、コーチを経てキエフ国立サーカス学校で指導していた。基礎をしっかり教えられる人材として西田敬一校長の目に留まり、「新設する日本の学校で教えてほしい」と頼まれたのはそんなときだった。
国も人も違う環境で指導することへの憧れがあり引き受けた。日本語は全く分からない状態で来たので、大変だった。指導に必要な腕、足、前転、側転といった言葉も、辞典で調べたり、テキストで勉強したりしながら少しずつ覚えていった。
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入団をためらう環境
学校には多いときには20人ほどの生徒がいた。卒業生には大道芸の道に進んだ人、海外のサーカス学校に入学した人などもいるが、日本のサーカスで活躍している人はさほど多くない。欧米ではサーカスのパフォーマーはアーティストとみなされる。日本のようにチケットを売ったり、テントを立てたりしない。忙しすぎることが、日本でサーカスに入団する人が少ない理由ではないか。
ウクライナでは国の支援が受けられない優秀なパフォーマーは、仕事を求めて海外に出て行くようになった。外国で活躍するためにはアクロバットもできて、ジャグリングもできるなど、多くの技を高いレベルでこなす必要がある。競争は激しく、日本人が海外で活躍するのは簡単ではない。
それでも真面目に努力している生徒たちを見ると、なんとか上達させてあげたいと思う。サーカスの仕事は夢があって面白い。一人でも多くの生徒が夢をかなえ、巣立っていけるように指導を続けていきたい。
(沢入国際サーカス学校講師)
[日本経済新聞朝刊2016年11月30日付]
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