綴られる愛人 井上荒野著「真実」を探る心理サスペンス

結婚詐欺をテーマにした『結婚』(これは父・井上光晴が一九八二年に発表した純文学ミステリー『結婚』へのオマージュ)、または夫殺しから始まる『ママがやった』(これは今年の収穫のひとつ)などがそうだが、井上荒野は時にたくみにミステリへと接近して読者を翻弄する(『結婚』などは井上光晴作品よりはるかに巧緻である)。

(集英社・1500円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

本書『綴(つづ)られる愛人』もまた、語りの名手ぶりを発揮していて、実にめざましい仕上がりである。

富山に住む二十一歳の大学生森航大と、編集者である夫に支配されている東京住まいの三十五歳の作家天谷(あまがい)柚(ゆう)。二人は文通コミュニティ「綴り人の会」を通じて手紙を交わし始める。

航大は人生に何の展望も見出(みいだ)せない三流大学生だが、貿易会社に勤める三十五歳のエリートサラリーマン「クモオ」として、柚は夫からの暴力にたえしのぶ二十八歳の専業主婦「凛子」として手紙をしたためる。

手紙だけの関係のはずだったが、次第に言葉が熱をおび、隠れていた欲望がうごめき、二人のあいだで一線を踏み越える提案がなされるようになる。

見知らぬ者同士が、いまどき珍しい手紙で関係を深めていく。嘘に真の思いをまぎれさせているうち盛りあがり、達成できない願望を言葉にしてしまい、それに応えるようにしてひとつの犯罪計画が語られる。精神的距離の接近が、一つの肉体の消滅を願うことになるのだが、気持ちは決して定まらず、揺れ動き、齟齬(そご)が生まれて、予想外の展開をたどる。

とくに第一部から第二部へと移ってからの展開が見事。テンポがあがり、サスペンスが高まり、いったいどうなるのかとはらはらするからである。犯罪が決行されるが、それが完全犯罪としての形をなすなら本格ミステリになるけれど、作者はむしろ男と女の心情をあらわにする心理サスペンスを選択して深層意識を探る。“事実とは違うことを書いたが、でもそれ以上に真実を書いた”“この世界には嘘と事実と、それらとはまるでべつ次元の「真実」がある”とあるように、ぎりぎりの局面で、それぞれが真実をまのあたりにするのである。

不埒(ふらち)な結婚詐欺師を主人公に据えながらも男女の不思議な繋(つな)がりを捉えた『結婚』、犯罪で始まりながらも数十年間のねじれた夫婦愛と犯罪隠蔽に走る家族愛を喜劇的に描いた『ママがやった』同様、愛と罪の関係をスリリングにみせてまことに読ませる。出色の小説である。

(文芸評論家 池上 冬樹)

[日本経済新聞朝刊2016年11月20日付]

綴られる愛人

著者 : 井上 荒野
出版 : 集英社
価格 : 1,620円 (税込み)

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