加藤泰の美学が凝縮 遺作「ざ・鬼太鼓座」一般公開へ
加藤泰監督の遺作「ざ・鬼太鼓(おんでこ)座」がついに一般公開される。1981年に完成後、諸事情でオクラ入りし、映画祭などでしか上映されなかった。加藤美学の粋が詰まる異色ドキュメンタリーだ。
「生まれて初めて思う通りのことをやれた」。加藤泰は81年の完成披露試写でそうあいさつしたという。
60~70年代に「沓掛時次郎遊侠一匹」「緋牡丹博徒お竜参上」など時代劇や任侠映画のプログラムピクチャーの名作を撮り続けた加藤。戦前に記録映画の監督として出発したとはいえ、佐渡の芸能集団の若者たちを撮るのは新たな挑戦だった。生誕100年の今年、甦(よみがえ)ったデジタル復元版を見ると、その美学の充満に驚く。
冬の荒波。雪の中を走る若者たち。船が着き、降りてくる人々を足元からとらえる。イチョウが舞い散る「鬼剣舞」。降り積もる雪の上を赤い傘が転がる「櫓(やぐら)のお七」。霧立ちこめる橋での「佐渡おけさ」……。
79年に撮影開始
「大太鼓」は火山のセットで演奏する。赤い溶岩から噴煙があがり、青い光がさす。締め込み一本で太鼓を叩(たた)く林英哲を真下から撮る。太ももに光る汗、踏みしめる足の裏まで映る。
撮影当時、現場を見学した映画評論家の山根貞男は驚いた。ドキュメンタリーなのに印刷した脚本がある。松竹大船撮影所に大きなセットが組まれている。加藤は「日頃やっていることを、カメラの前でやってもらっている。だから嘘じゃない」と語ったという。
脚本の仲倉重郎は加藤に「ホンはなくても撮れるんですけどね。詩のようなものでいいんです」と指示された。「ならば監督が予想できないものを書こう」と、日本の四季を追う大胆な脚本を仕上げた。演奏の状況設定は仲倉の脚本に基づく。すべて撮影した後に加藤が構成をやり直した。
79年2月に撮影開始。その年の佐渡は雪が少なく「塩と綿で雪に見せた」と仲倉。スタッフは少数で、プロの助監督は仲倉一人。今や世界的な太鼓奏者の林も当時は無名の座員の一人。林は「我々も現場仕事を手伝った。カメラを低い位置に置くための穴掘り、埋め戻しもやった」と振り返る。
全カット生録音
「若者達がその心と体の極限を駆使して叩き、吹き、弾いて生み出すもの」(演出ノート)を加藤は伝えようとした。こだわったのは音だ。劇映画で同時録音に徹した加藤はこのドキュメンタリーでも貫いた。
通常の音楽ビデオは演奏を通しで録音したあと、それにあわせて部分ごとに演奏するふりのカットを撮る。ところが加藤はすべてのカットを生録音した。これは大変な作業だ。演奏者は何回も演奏しなくてはならないし、毎回のテンポがあってないとつながらない。
だからここに映っているのはすべて本物の演奏だ。「真剣さを出すには嘘があってはいけないと加藤さんは考えた」と林。主演奏者の林は編集にも立ち会い、つなぎの指示を出した。
ロケでは荒波を背景に津軽三味線の演奏も同時録音した。「見えない音もちゃんと録る。劇映画と同じ。加藤さんは生身の肉体が一番だと考えていた」と仲倉。
ところが撮影中にトラブルが起こる。製作者でもある鬼太鼓座の主宰者、田耕が「お七」役の女性座員を降板させたのだ。林によると、加藤は田と掛け合ったが、田は譲らず「監督を降ろす」とまで言い始めた。
加藤は座員とスタッフに宣言した。「彼女を使わないというのなら、のみましょう。私は最後まで撮ります。中止にはさせません。代役を連れてきます」
林は「加藤さんは責任者として最後までやろうとしていた。我々のことを気に入っていたのだと思う。スタッフも座員も士気が下がる中、監督一人が孤独に耐えて頑張っていた。監督が男気を見せなかったら、映画はできなかった」と語る。
映画の完成と前後して鬼太鼓座は分裂。劇場公開は見送られた。「当時のことが甦るから今も見るのはきつい」と林。加藤は85年に死去。未公開の遺作は89年の東京国際映画祭や回顧特集など限られた機会でしか上映されなかった。
山根は「物語がない分、音、青春という要素が純粋な形で表れている。加藤泰の映画作りの核心だけでできた作品」と評する。ベネチア映画祭で披露したデジタル復元版は、25日に東京フィルメックスで上映。来年1月21日に東京・渋谷のユーロスペースで封切る。
(編集委員 古賀重樹)
[日本経済新聞夕刊2016年11月14日付]
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