切り絵船長、連絡船の記憶 瀬戸内海を鮮やかに描く
元宇高連絡船船長、萩原幹生
穏やかに見える瀬戸内海だが、本当はちがう。潮の速さは世界でも有数で、ちょっとでも気を抜けば流されてしまう。そのうえ冬になると強風が吹き、海が荒れる。だからシケの日の航海は怖くてたまらない。
ここに掲げた切り絵は、船長のそんな不安を込めている。引き裂かれた青紫の空と、荒々しく打ち上げる波から緊張感が伝わるだろう。オレンジの船は岡山・宇野港を目指し、今まさに高松港を離れたところだ。
1988年に瀬戸大橋が開通すると、本州と四国を結ぶ宇高連絡船は廃止された。船乗りとして旧国鉄で働いた私は、その最後の船長を務めた。連絡船を描いた切り絵を作って船内に飾ったから、いつの間にか「切り絵船長」と呼ばれるようになった。あれから30年がたち、手がけた作品は400を超す。
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世界航路を諦め国鉄に
備前の山奥で育った。高校のとき初めて宇高連絡船に乗り、いっぺんに海に憧れた。なんて海は広いんだろう。将来は船乗りになって、七つの海を制覇してやろう。
夢をかなえるため、神戸商船大学に進む。腎臓を悪くしたので世界航路こそ諦めたが、各地で連絡船を運航する国鉄に入社。青函連絡船の航海士などを経て、38歳で宇高連絡船の船長についた。
拝命した日、遺書をしたためた。船底1枚の下は地獄。まして当時の高松港は全国一の出入港数だった。大型船に加えて、フェリーや漁船が入り乱れ、一瞬でも気を緩めれば事故につながる。潮の流れが速く、冬は3日に1度は強風が吹き、春には濃霧がたちこめる。過去には大事故もあった。いつ死ぬかわからない、という覚悟で臨んだ。
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瀬戸大橋の完成で廃止
6、7年がたち、瀬戸大橋完成が近づくにつれ、さみしさがこみ上げた。80年近く瀬戸内を支えた連絡船がこのまま忘れられるのは悲しすぎる。せめて3人の子どもに何か残せないか……。そのころ、たまたま市役所で切り絵の個展を見た。これだと直感した。
昔から絵が得意で、あちこち出かけてスケッチをするのが楽しみだった。油絵は臭いと妻に反対され、日本画は優美すぎてしっくりこない。黒の輪郭線に鮮やかな色が映えるドラマチックな切り絵は、まさに求めていたものだった。その足で作家の自宅に押しかけ、弟子入りを志願した。
仕事は昼も夜もない。夕方に乗ると、夜中に4時間仮眠して、翌日昼すぎまで働く。体はきついが、もっとつらいことがあった。もうすぐ連絡船は廃止になる。乗組員の再就職先を見つけてやらねばならないし、自分の将来もわからない。ストレスに押しつぶされそうになるなか、唯一、全てを忘れられるのが切り絵をしているときだった。
連絡船は全部で4隻あり、それらが瀬戸内に浮かぶ四季折々の風景を作品にした。梅が咲き誇る早春には、赤い阿波丸とオレンジの伊予丸がゆったりと進むのどかなようす、霧がたちこめる5月には、高松港に濃紺の土佐丸が停泊する幻想的な情景。
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港に見た数々のドラマ
操船室の双眼鏡でのぞくと地上の人々の表情がくっきりとわかる。港で繰り広げられるドラマも格好の題材となった。受験生を見送る母親は、船が見えなくなるまで不安げに手を振る。毎月決まった頃、明け方に別れを惜しむ中年のカップルもいた。港や船が絵になるのは、こうした物語があるからだろう。時には娘を連れ出し、夕焼けで染まった工事中の瀬戸大橋と連絡船を背景にポーズをとってもらった。
船内に作品を飾ると、たちまち人気が出た。あまりに有名になり、なかには「遊んでると思われたらかなわんから、クビにしろ」という人もいたらしい。そのうちに応援してくれるようになり、「オレンジカード」のデザインにも使われた。
連絡船が廃止になったあと、しばらく地上で働いたが、最後は観光船の船長として職務を終えた。そのころ、妻を亡くしたが、供養のため、お遍路を巡って作品にするうち、悲しみが癒やされた。また切り絵に救われた。
その後も切り絵は続けていて、連絡船の思い出、四国の名所などを題材にしている。80歳を目前に身の回りの整理を始め、作品もほとんど人にあげてしまった。切り絵教室で連絡船の話をすると、高齢の生徒は懐かしがってくれる。切り絵と、連絡船の思い出とが、私の生きがいであり、支えでもある。
(はぎはら・みきお=元宇高連絡船船長)
[日本経済新聞朝刊2016年11月9日付]
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