写真集「鎌鼬」の舞台に美術館
約半世紀前の写真集が結んだ縁が秋田県南部に小さな美術館を生んだ。舞踏家・土方巽を撮った写真家・細江英公の代表作「鎌鼬(かまいたち)」(1969年刊)の舞台の里では今も当時の記憶が語り継がれる。
10月22日の昼どき、細江は「鎌鼬美術館」の開館式典に出席するため羽後町田代地区に向かう車中にいた。秋田空港からは、およそ1時間半の道のり。秋晴れの空を眺めつつ、細江がつぶやく。「51年前も晴れていたんじゃないかなあ。撮影時に雨だった記憶がない」
田んぼの脇にはあの日と同じ、収穫後の稲を掛ける「稲架(はさ)」が組まれている。「村の大人も子供もなんでもやってくれて、(彼らを)のせつつ(自分たちも)のせられて、興奮しながら撮りまくった」と振り返る。
打ち合わせなく
32歳の細江が5歳年上で86年に亡くなった舞踏家、土方巽とともに田代に向かったのは、65年9月26日。「だれもやったことのないことをやろうという思い」(細江)で土方の故郷、秋田を目指し、つづら折りの峠を越えてこの地にたどり着いた。シナリオも事前の打ち合わせもない、2日間かぎりの撮影。稲架によじ登ってカラスのようにたたずみ、田んぼを走る土方を、細江は追いかけ、伴走しつつ、シャッターを切った。
「小昼(こびる)」の休憩中の農家の人々と撮った1枚(写真右上)では、突然の乱入者である土方を怖がることなく、誰もがはじける笑顔を見せている。当時中学生で父親や姉らとともに写真の左端に写る高橋岩夫さんは言う。「土方さんは何もしゃべらなかったけれど、そこにいるだけでおもしろかった。どの写真も子供たちが怖がる様子がない」
開館初日の細江の講演会には、51年前、土方に"さらわれた"赤ん坊の薄井みき子さんも足を運んだ。写真には泣き叫ぶ薄井さんを左手で抱え、疾走する土方が写っているが、もちろん本人に記憶はない。
用水にでも落ちているのではないかと両親が探し回った思い出を聞かされたが「子供のころは意味がよく分からなかった」と薄井さん。しかし、東京に住んでいた20代のころ、細江の写真展を開催中の美術館で「懐かしい顔がいっぱい」の写真に出合った。帰郷後に暮らす自宅には、引き延ばした写真と細江直筆の手紙を額装して飾っている。
細江は「美術館を作りたいという声が地元から挙がったことが何よりうれしい」と目を細める。91年、秋田での展覧会を機に、田代再訪を思い立った。その26年前に前触れなく村に出没。土方は「畑の中では野糞(ぐそ)をたれ、お嫁さんを襲い、赤ん坊をさらって田んぼを走った」。それを「通り魔のような早わざで撮りまくった」非礼をわびるためだ。ところが、そんな細江を迎えるため、雪の中、20人ほどの住民が自家製の漬物を携え公民館に集まっていたという。その場で「鎌鼬」の写真を展示する美術館がほしいとの声が挙がり、感激した細江は作品の寄贈を約束する。
3階建て蔵利用
念願かなうのは、さらに四半世紀後。今年、管理・運営を担うNPO法人鎌鼬の会が創設され、土方に関する資料を収蔵する慶応大アート・センター(東京・港)などが協力する仕組みが出来上がると、とんとん拍子に話が進んだ。
町立にはならなかったが、鎌鼬の会の長谷山信介理事長が町に譲渡した旧長谷山邸の、3階建ての蔵を展示室とすることで町とも合意。寄付やクラウドファンディングで約550万円を調達し、開館にこぎつけた。細江が寄贈した10点のオリジナルプリントや「鎌鼬」初版本など、計40点ほどを展示。同地で撮影された「鎌鼬」に未収録の作品の公開も視野に入れる。
規模は小さくとも、かやぶき民家や稲架のあるのどかな田園こそが、この美術館の魅力だ。国内外から田代を訪れる舞踏関係者や写真ファンのガイド役を買って出た高橋恒悦さんは「最近になって特定された撮影場所もある」と話す。「写真集が2度目の生命をもらった」と細江が言うように、「鎌鼬」はこの里に生き続けている。
(編集委員 窪田直子)
[日本経済新聞夕刊2016年11月7日付]
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