厄介な遺産 福嶋亮大著
演劇という「亡霊」と近代文学
現代の文学、とくに小説において、演劇の世界から越境してきた書き手は少なくない。彼らの文章の魅力は、しかしその出自ではなく、断ち切ったはずの演劇が時おり言葉のあいだから顔を出す不気味さにある。
むろん、文学から演劇への越境もありうるのだが、この見方はどこかゆがんでいる。というのも、散文と呼ばれる分野のひとつである物語には、もう演劇的な要素が含まれているからだ。その影に侵食され、ときに激しく食い破られることで、書き手は新しい地平を見出(みいだ)してきたのである。
こうした逆説は、日本近代文学の進化と発展の過程においてすでに生じていた。本書は、散文作品に「演劇的想像力」と呼ぶべき力学が作用して行文を軋(きし)ませ、その軋みが「厄介な遺産」として継承されながら、不可避の変化を文学にもたらしていった経緯を、大胆かつ鮮やかに描き出す。
著者によれば、演劇的想像力は、演技、観察、演出の三つの位相に分類される。近代の小説を視野に入れた場合、最も重要なのは二番目の観察だ。たとえば夏目漱石の『草枕』は、前世代の物語を支配した知や情からも離れ、世界を絵画のように眺める「非人情」によって成り立っていると同時に、それをかき乱しかねない演劇的な女性の存在に脅かされてもいる。この不穏な気配が『虞美人草』に引き継がれていることは言うまでもない。漱石はまさしく「ヴァーチャル(潜在的)な劇作家」なのだ。
漱石だけではない。森鴎外、北村透谷、島崎藤村、谷崎潤一郎、川端康成、円地文子、中上健次らの作品にも、演劇的欲望が亡霊のごとく回帰する。特筆すべきは、この亡霊の輪郭が、西洋に偏りがちな従来の近代文学史とは異なり、「東洋的近世」という広い視座のなかで感知されていることだろう。実際、馬琴は大陸の文芸を批評的に学び、雅語を排した俗な言葉で物語を作りはじめた。その馬琴を否定し、演劇に対する小説の優位を説いた『小説神髄』の坪内逍遙が、ふたたび演劇に取り込まれていくねじれの部分に、亡霊はしぶとく居座っている。
個人的には、紀行文を地図作製という文脈において演劇と見なし、紀行文作家だった田山花袋の変貌と、変貌後にもあらわれる紀行文的な描写の指摘に上向きの感興を覚えた。つまり本書は、厄介な亡霊の来訪を新たな創作の可能性へと転じてくれる、実作者向けの、得がたい処方箋としても読みうるのではないだろうか。
(作家 堀江 敏幸)
[日本経済新聞朝刊2016年10月30日付]
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