元祖ファストフード 「立ちそば」の進化がすごい
かき氷・ポテト載せも
軽井沢駅構内に 発祥の地の看板
江戸時代、街角の屋台の「夜鷹(よたか)そば」として、そばを立ち食いする習慣が広がった。それでは駅そばの発祥はいつか。「北海道の長万部(おしゃまんべ)駅や森駅説はあるが、最も古いと言われているのが長野県の軽井沢駅」。2500店以上の駅そばの味を知るという駅そばライターの鈴木弘毅さんはそう話す。
今もJR軽井沢駅構内で営業するそば店には、駅そば発祥の地の看板がある。「売り始めたのは旅館を経営する油屋、私の義理の母の小川ヒデです」と話すのは軽井沢町内に住む小川登代子さん(94)。1893年に軽井沢―横川間に鉄道が開通したが、碓氷峠を越えるけん引専用の機関車が必要。車両付け替えの時間が長かった。このため駅のホームで弁当と、そばを丼に盛り売って回ったという。
大正時代以降、どんどん増えた駅そばは主に駅弁業者が手がけていた。注文が入るとゆで麺に温めたつゆをかけ、列車内の乗客に渡すのが一般的だった。駅のホームでの立ち食いスタイルが定着し始めたのは1955年ごろから。
戦後は駅ごとに早さと個性を追求する駅そばが花開いた。JR姫路駅(兵庫県姫路市)のホームにある「まねき」は戦後まもなくから営業する。中華麺に和風だしを注ぐ独自の味は全国にファンがいる。訪れて「えきそば一丁」と注文すると1分もかからぬうちに出てきた。澄んだつゆは、だしが香り、さっぱりしておいしい。軟らかめの中華麺がすっと胃に流れていく。
60年代に入ると、立ち食いそばは駅構内だけでなく駅の外へと広がる。「立ちそば」の振興だ。関西に多い大阪誠和食品(大阪市)の都そばが62年、東京・有楽町に1号店を開いたのに続き、梅もと(東京・千代田)は65年に大塚に、66年に名代富士そば(ダイタンフード、同渋谷)が渋谷に店を開く。早くて安い1杯に飛びついたのが高度成長期を支えた会社員らだ。
和のファストフードとして定着した駅そば・立ちそばに味の大きな変革が起きたのは90年代だった。立ちそばチェーンが生タイプの麺を続々導入し、95年にはゆで太郎を経営する信越食品(同大田)が店内での製麺を始めた。レストラン京王(同府中市)が2011年に開いた万葉そばつつじケ丘店(同調布市)を訪ねると、ゆで釜の上に製麺機がある。麺だねの塊を圧力で押し出し、麺の長さになったら切る。出来たて麺をすぐにゆでるから香り高く、のどごしがいい。
店内製麺で十割そばを出す嵯峨谷が1号店を開いたのは10年。手ごろなそばの麺の進化は目が離せない。
イス席を増やし 女性客取り込み
もう一つの大きな進化は1990年代初めから立ちそば店でイスを置く店が増えたことだ。富士そばは先駆け。導入1号店の経堂店(同世田谷)は住宅地にあり、女性客を意識したという。男性が駆け込んで、そばをすすって帰る姿がほとんどだった駅そば・立ちそば店は、客層をがらっと変え、座って食事を楽しめる店へと変わった。
JR系列の駅そば店を経営する日本レストランエンタプライズは95年以降、「あじさい茶屋」などへのブランド統一を進めた。「ブランドをまとめたことで、何が変わったのですか」。本社を訪ねて質問をぶつけると「商品開発力が格段に高まったと思います」(麺営業グループの刑部秀章次長)との答えが返ってきた。
東日本全体の売れ行きを把握できるようになり、「女性が好きなのは具の種類がたくさんのメニュー、男性40~50代は揚げもの好き」と法則が見えた。これを基に10年には「七種野菜天そば」、昨年は北陸新幹線開業に合わせて「白海老天そば」がヒット商品になった。新開発メニューは2カ月に1回、2ブランドで5商品を入れ替えるそうだ。
大阪市にある阪急そば若菜十三(じゅうそう)店は昨年、フライドポテトを載せた「ポテそば」を発売。今夏は氷をそばにこんもり載せた「かき氷そば」を売り出して若者らの話題になった。ほぼワンコインで楽しめる駅そば・立ちそばが、こんなに進化しているとは。まだまだ研究のしがいがありそうだ。
訪日客も和食 気軽に楽しむ
近所の立ちそば店で、一人の外国人観光客に会った。対面式の注文で英語が通じず苦戦していたが、そばを受け取ると器用に箸を操って食べていた。そういえば、都心の立ちそば店では券売機がデジタル化して英語対応しているようだ。駅近くには必ずあって、ワンコインで食べられる。気軽に和食を楽しみたい外国人向けの重要観光スポットになっている。
(小柳優太)
[日経プラスワン2016年10月15日付]
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