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日清オイリオグループの今村隆郎社長(67)は日清製油(当時)に入社し、まず情報システム部門に配属された。

いまむら・たかお 1971年(昭46年)横浜市大商卒、日清製油(現日清オイリオグループ)入社。専務などを経て2011年に">

いまむら・たかお 1971年(昭46年)横浜市大商卒、日清製油(現日清オイリオグループ)入社。専務などを経て2011年に

私の就職した1971年はオイルショック前で、比較的景気はよかった。大学の同期の多くは大手企業に就職しましたが、私は大手よりも中堅でこれから伸びそうなところがよく、しかも食いっぱぐれがないということで食品を選びました。

父親には企業なら営業が花形だろうと言われましたが、私は人事の人に営業以外にしてくれと言ったものです。今ではちょっと考えられません。歴代社長の多くが原料調達畑の中、管理部門中心の珍しいキャリアを歩むきっかけになりました。

最初の配属は計算管理部です。大型のコンピューターを使っていました。事務用のプログラミング言語にコボルというのがあり、これで賃金計算をします。現金で給与を払っていたので間違えてはいけない。ベースアップなどがあるとプログラムの修正が必要になり、徹夜もしました。

3年後、食用油の主力工場である横浜磯子工場(横浜市)に転勤となった。

工場見学の案内係として生産工程を勉強するなど、工場での9年間で食品メーカーの全体像を学びました。管理センターで安全や衛生などを担当したときのことです。延べ100万時間の無災害をめざす取り組みで、達成直前に事務の女性が鉛筆を削っていて手を切ったというささいなことでアウトになった。その女性は泣いていましたね。食品企業はこんなに厳しいのかと驚きました。

また、当時の工場長がIT(情報技術)を取り入れて仕事のやり方を変えようという進取の精神の人で、小型のオフィスコンピューターを導入しました。生産物流の管理システムを作り、事務作業などの省力化に貢献しました。

83年に本社に戻り、社員へのプログラミング言語の指導を任される。

配属されたのは新設のシステム開発課で、39歳で課長に昇進したのもこの課にいた時期です。主にパソコン導入に携わり、ベーシックというプログラミング言語を社員に教えることになりました。工場時代に同様のことを既にやっていたため、その経験が生きました。

当時は小型のパソコンなどが出始めた時代です。入社5年以上の社員を対象に数カ月間、月2回ほど研修を開き、表計算など身近な仕事をプログラムで組ませました。皆初めての経験で、勤務時間中に勉強したり人に聞いて回ったりして苦労したと思います。

「IT企業でもない会社で無駄なことをやらせて」と思った人もいるかもしれない。完成品も今ならエクセルですぐできるようなものです。しかし、当時は身の回りの業務をそうやって改革し、効率化していくことに意味があったと思います。

〈あのころ〉
 1980年代は消費が多様化し健康志向が高まってきた。食用油業界もヘルシーさを打ち出した製品に次々と参入。日清製油も80年に卵を使わないマヨネーズタイプの調味料「日清マヨドレ」を、82年には豆乳を発売した。主力の食用油だけに頼らない多角的な商品戦略を模索していた。
[日本経済新聞朝刊2016年4月26日付]

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