時を駆ける、高知の馬文化 山内一豊から続く伝統
長山昌広
高知には、馬が走る姿の迫力や美しさを大切にする独特の馬文化がある。その伝統は戦国武将の山内一豊に始まり、明治期から第2次大戦前後までは有力な馬産地のひとつとなった。農村部の草競馬も盛んだった。私は地方競馬を主催する高知県競馬組合に獣医師として勤めながら、馬にまつわる地元の歴史を調べてきた。
∬ ∬ ∬
山内一豊が築いた礎
きっかけは競馬場パドックのそばの馬頭観音堂だった。調教師や馬主らが毎春お参りし、僧侶を招いてお経をあげる。1981年に就職して以来、私も参加していたが、初めて関心を抱いたのは2003年だった。
ふと目をやった近くの石台に、何か文字が刻んである。水をかけると「為往来安全 天保九年」と浮かんできた。観音堂が1838年の建立であることを示す石だった。1916年に建てられた競馬場の歴史よりずっと古い。近くの古老や寺を尋ねて回ると、その昔、ご本尊は海からあがり、競馬場の近くにまつられていたとの言い伝えを聞いた。
歴史の面白さに目覚め、馬文化を調べ始めると、藩祖の山内一豊にたどり着いた。戦国時代、夫人が大金を工面して名馬を入手、出世の糸口をつかんだ逸話で知られる。関ケ原の合戦後に土佐を与えられ、高知城下で毎年正月「おのり初め」と呼ぶ閲兵式を開いた。
城下町に約1キロの直線の馬場をしつらえ、夜明けから日暮れまで騎馬武者を1騎ずつ走らせた。武士はよりすぐりの馬で参加し、武家の妻は実戦の出陣式さながらに白無垢(むく)を着て、家から送り出したとか。
一豊の死後も開催され、幕末の最盛期には約1000騎が登場、数万人の見物客が集まった。全国的にも珍しいこの行事が、土佐の馬文化の礎を築いたのだろう。
∬ ∬ ∬
土佐藩の躍進支える
馬好きは土佐出身の明治の元勲、板垣退助にも受け継がれた。1901年の論文「競馬の目的」を読むと「私は元来馬が大好きで、駆馬(かけうま)も随分好んで行った」とある。
板垣は日本の古式馬術に通じていただけでなく、洋式の騎兵術の吸収にも熱心だった。騎兵は近代陸戦の主力部隊のひとつ。幕末に騎兵学を修めた板垣は、土佐藩で騎兵訓練を導入する。
維新後、板垣が主導した自由民権運動が盛んになると、政治集会である自由大懇親会が高知で開かれ、たびたび馬術が披露された。その様子は当時の新聞で知ることができる。1883年3月20日の土陽新聞には、騎馬の集団戦の記事とイラストが掲載されている。集まった人々は馬術に熱狂し、最後の大演説に聞き入ったという。
あまり語り継がれていない身近な馬文化にも気づかされた。1960年ごろまでは農村部で競馬が盛んで、県内各地にのべ300カ所ほどの草競馬場が作られたと地元の歴史家に聞いた。神社の奉納競馬だけでなく、100頭以上が集まり、立派な賞品が出る本格的なレースもあった。
あるとき、ネット上の航空写真の地図で競馬場と思われる楕円状の痕跡を見つけ、高知市春野町の仁淀川の河川敷を訪れた。目算して一周約600メートルのコースの一部が残っていて、居合わせた年配の川漁師に聞くと、昭和初期には、春と秋に定期的にレースを開催していたとのことだった。
今、研究しているのは高知出身で、海運で成功した大正、昭和期の実業家、山地土佐太郎と山地四郎の兄弟だ。兄の土佐太郎は1910年、ブラジルを訪れて現地の馬のたくましさに驚き、日本の馬の改良に尽くした。
∬ ∬ ∬
埋もれた功績を顕彰
弟の四郎がさらなる馬好きで、山月号という愛馬を亡くしたとき、高知市内に立派な塚を立てた。筆山(ひつざん)という墓地の一角に今もその山月塚はある。軍馬優先の時代、民間馬をこれほど手厚く弔った例はまずないだろう。2人の功績はほとんど忘れられており、発掘して顕彰したいと考えている。
競走馬の検疫や応急治療を仕事にしながらも、私は長く競馬をただのレジャーだと思っていた。しかし、馬文化を学ぶにつれ、馬の育成や改良を通じ、競馬も国の産業に貢献した歴史を知った。
高知競馬は近年「負け組の星」といわれたハルウララで一躍有名になったものの、長く存続の危機にさらされていた。次々と地方の競馬場が消えていくなかで生き残ったのは、何より関係者の努力が大きいが、地域の馬文化の存在もあったと思う。その歴史を調べて発信していくのは、私の役目でもある。
(ながやま・まさひろ=獣医師)
[日本経済新聞朝刊2016年4月26日付]
ワークスタイルや暮らし・家計管理に役立つノウハウなどをまとめています。
※ NIKKEI STYLE は2023年にリニューアルしました。これまでに公開したコンテンツのほとんどは日経電子版などで引き続きご覧いただけます。