ゾンビ映画に見る世相 舞台は戦争・テロ・ネット社会……
人類の大半がゾンビと化し、地球はすでにゾンビの星。臆病でひきこもりだったがゆえに生き延びてきた少年と、マッチョな男、詐欺師姉妹がゾンビのいない「楽園」を目指す――。米映画「ゾンビランド」(24日公開)はホラーというより青春コメディーだ。
さえない男の子が人生を変える体験をして一人前になる、という筋書きはハリウッドお得意のパターン。闘う相手がいじめっ子や恋敵ではなく、ゾンビというだけだ。むしろ相手が人間でない分、やっつけ方に容赦がなく、壮快感が高まる。
いるのが当たり前
「映画の中のゾンビはもう特殊な存在ではなくなった」と、ゾンビ映画に詳しいデザイナーでライターの高橋ヨシキ氏は話す。死者がよみがえって生者を食らうなどという状況は日常ではあり得ない。だが、2000年代以降、スクリーンの中のゾンビは「いるのが当たり前」になり、ホラーの枠を出てあらゆるジャンルに進出している。
ゾンビをアクション映画の素材としているのが、フランス発の「ザ・ホード 死霊の大群」(17日公開)だ。ギャングに仲間を殺された警官たちが報復のためアジトに突入。両者が死闘を演じるかと思いきや、そこへゾンビが襲ってきて、やむなくギャングと警官が手を組み立ち向かう。なぜ、どこからゾンビが現れたのか、一切説明はない。ただそこにいるものとして、世界観が形成されている。
「ゾンビは現代社会のメタファー(隠喩(いんゆ))」と語るのは、映画評論家の江戸木純氏だ。「近年の終末的な社会情勢が、ゾンビ映画を受け入れやすくしている」とみる。
例えば、人気ゲームを映画化し21世紀のゾンビ映画ブームの先駆けとなった「バイオハザード」(02年)。細菌兵器のウイルスに感染して人がゾンビ化するという設定は、01年の米同時テロ後の世界にリアルに響いた。昨年からはさらに新型インフルエンザウイルスの恐怖も加わり、「災害時のサバイバル感覚、危機感が身近なものになっている」(江戸木氏)。
もともとゾンビは、社会と人間を映す鏡の性格を帯びて生まれてきた。「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」(1968年)で今日のゾンビを創造したジョージ・A・ロメロ監督が「ゾンビとは我々自身である」という意図のもとに、シリーズを作り続けてきたからだ。
ショッピングモールを目的もなくさまよう死者たちの姿に、大量消費社会への風刺をこめた「ゾンビ」(78年)。マイノリティーであるゾンビに対する人間の仕打ちが、イラク戦争時の米国と重なる「ランド・オブ・ザ・デッド」(05年)。マスメディアが崩壊し、ネット情報が飛び交う社会の混乱を取り上げた「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」(08年)……。
その続編となる新作「サバイバル・オブ・ザ・デッド」(公開中)では、西部劇の名作「大いなる西部」(58年)の枠組みを借り、ゾンビの扱いを巡って対立し、殺し合う人間の愚かさを描いた。
社会を痛烈に批判
「初期のゾンビ映画は、自分も意思のないゾンビにされることへの怖さがあった。今は、コミュニケーションできない相手が襲ってくるところに怖さがある」と「ゾンビ映画大事典」の著者、伊東美和氏は言う。見た目は同じ人間なのに、何を考えているかわからない。これもテロや無差別殺人が横行する時代の恐怖だろう。
ロメロ作品に限らず、最近のゾンビ映画には人間とゾンビの区別がつかない、という場面が多く出てくる。ネットやゲームの世界に没入し、耳にはイヤホン。生気のない、うつろな表情で消費の海をさまよう現代人と、ゾンビは何が違うのか。映画は痛烈な文明批判を観客に突きつけている。(文化部 白木緑)
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