創業の苦楽、ハワイで体感 米社から買収のコンビニ立て直す
セブン―イレブン・ジャパン社長 井阪隆一氏(中)
セブン―イレブン・ジャパンの井阪隆一社長(54)は、1990年にハワイに赴任した。
セブンイレブンを創業した米国の旧サウスランドは、80年代から経営危機に陥っていました。再建を支援するため、セブン―イレブン・ジャパンは89年末にハワイの58店を買収しました。翌90年3月、私は再建チームの一員としてハワイのオアフ島に降り立ちました。立場は2番手とはいえ、チームはわずか4人です。
まず、10日ほど店員として働いてみると、驚くことばかりでした。お客の目当てはケース単位で安売りするビールやコーラ。サンドイッチは、レジ打ちの合間にカウンター内で手作りです。コンビニエンスストアの一番の魅力はフレッシュな食品。「店内で必要な量を作るなんて俺にはできない。君もできないだろ」。現地の商品部長にそう説き、外部調達に動きました。
製造も配送もゼロからの挑戦だった。
日本と違い、作るにも運ぶにも自分でパートナーを見つけねばなりません。ケータリング会社にサンドイッチ作りを頼みましたが、注文数が足りず3カ月で取引を打ち切られました。冷蔵配送は牛乳の会社に断られ、アイスクリーム店に依頼しました。
シャンプーや洗剤など日用品も問題でした。現地社員にスーパーでお気に入りを選ばせると、セブンイレブンの商品と全く違う。価格競争を避けようと、小容量品に偏っていたのです。商品リストを作り直し、それに合う陳列棚を夜10時から店に運び込みました。疲れた従業員から「何でこんなことが必要なんだ」と言われたこともありました。
セブン―イレブン・ジャパンは89年末にハワイの58店を買収した
歌を介した交流が従業員との壁をなくした。
「力で押しつけるのはやめよう」が当時の我々の姿勢です。表立った反発は少なかったのですが、それでも警戒されていました。転機はクリスマスパーティーでした。マイクを握り「大変な仕事だけど実を結ぶから」と手短にスピーチした後で、大好きなビートルズをアカペラで歌いました。曲は「オール・マイ・ラヴィング」。すると従業員たちが次々舞台に登って私に抱きついたり、踊ったり。初めて打ち解けたと思いました。
「新しい商品で売り場を変えよう」「価格でも対抗したい」。ハワイの人たちに便利な店とは何か、従業員と話し合い続けました。ついに生まれた大ヒットが、1店当たり1日に40個も売れる「スパムムスビ」。新しい工場もできて米飯商品が軌道に乗り、今ではハワイの店の平均売上高は購買力平価で日本、中国・北京に次ぐ水準です。
日本の先輩たちが作った仕組みの一つ一つがなぜ必要なのかを実感した4年間だった。
欠品を出さないよう、オンライン受発注や販売履歴が取れるレジも入れました。日本本社の17年間に及ぶコンビニ運営のインフラ作りを追体験する日々でした。商品が店に届くまでには、作る人、運ぶ人、それをつなぐシステムがあります。インフラが何もない場所だからこそ身にしみて理解できたのだと思います。
「24時間営業は電気の無駄」「多頻度小口配送で道路が混雑する」。1990年代初め、コンビニエンスストアへの批判も目立ち始めた。各社は「夜間に働く人が利用する」「共同配送で車両台数を減らしている」などと反論。それはコンビニの存在感が大きくなった証しでもあった。