弁当3便制、説得重ねる 「おいしくなる」の思い支えに
セブン―イレブン・ジャパン社長 井阪隆一氏(上)
セブン―イレブン・ジャパンの井阪隆一社長(54)の原点は、入社1年目のクリスマスにある。
1980年の冬、私は福島県郡山市の直営店で店員として働いていました。クリスマスイブの昼から豪雪が街を襲い、3日にわたり電気も水道も止まりました。大半の店が閉まり静まりかえった街で、セブンイレブンは店を開け続けました。
東京からおにぎりを運びましたが、来店客が多く、棚はすぐに空になります。「食べるものも飲むものもなかった」「ありがとう」とお客様に感謝され、身をもって流通業の使命を感じました。昨年の東日本大震災で商品供給に奔走したときも、あの冬を思い出しました。
87年、29歳のときに初めて大きなプロジェクトを任された。
いさか・りゅういち 80年(昭55年)青山学院大法卒、セブン―イレブン・ジャパン入社。主に商品開発畑を歩み02年取締役、07年同商品本部長。09年、生え抜き初の社長に。東京都出身。
「3便をやるぞ」という鈴木敏文社長(当時)の宣言が始まりでした。当時は弁当やおにぎりは1日2回、工場から店舗に運んでいました。これを深夜、昼前、夕方の3回に増やすというのです。食事時にタイムリーに商品を届ければ、鮮度が違います。私は商品本部で弁当などを担当するマーチャンダイザーを務めていましたが、関連4部門のまとめ役に選ばれました。
交渉相手は、セブンイレブン専門に弁当を作る工場の常務や専務でした。「そんなこと言ったってね、井阪君」と説明の席で先方のある役員にたしなめられました。「パートさんは一人一人生活がある。ご主人の食事も作れなくなるよ」
指摘通りの一大事でした。3便制にすれば工場も1日2シフトから3シフトになり、24時間稼働し続けることになります。1工場で働く人が約300人。首都圏だけで6000人もの人たちの働き方を一変させるのです。
弁当などが「今よりも必ずおいしくなる」との思いが支えになった。
2便では商品を長持ちさせるため、念入りに火を通さねばなりません。でも3便なら、トンカツも余熱で仕上げるジューシーなものにできる。「今のままでは外食産業や家庭の味に勝てない」とメーカーに訴えました。
実現すれば売り上げも工場で働く人たちの給料も増やせるはず。コスト削減にも知恵を絞りました。例えば、A社とB社が隣り合う地域に工場を持つとします。100品目の商品をそれぞれ全て作るのではなく、50品目ずつ分担して、互いに融通する。これで投資負担を軽減できました。
全地域での3便制導入まで、2年かかった。
工場が24時間稼働に移行するたびに立ち会い、目をこすりながら製造時間が書かれたラベルを確認して商品を送り出しました。本格的な増収効果が出始めたのは2、3年後。プロジェクトの果実を皆が味わう場に、私はいませんでした。思わぬ辞令で、ハワイの地を踏んでいたのです。
ドリンク剤の「24時間戦えますか」のCMが話題になったバブル時代。24時間営業で他の小売業と差異化したコンビニエンスストアも急成長した。日経MJの調査では1980年代末の成長率は年16%前後、全店売上高は2兆円を超えた。ただ、百貨店に比べればまだ4分の1ほどだった。