アイリッシュコーヒー ウイスキーとコーヒーの出合い
世界5大ウイスキーの一角・ジャパニーズ(6)
ダブリンを出てコークに到着したのは8時過ぎだった。町の夜景は美しかった。町はすり鉢状で、三方が斜面になっており、はるか上の方まで家が密集していた。評価が高まる国産ウイスキーへと至るウイスキーの歴史と魅力をひもとく本連載、今回もアイリッシュの物語から……。
すり鉢の底を流れて、海に注いでいるのがリー川だ。町の照明が眩かった。リー川沿いの石畳の通りにはしゃれたレストランやパブが密集していた。産業革命で発展した町だが、工業都市然とした感じがあまりなく町全体がカラフルで、建物もフランス風をはじめ、様々なスタイルのものがあった。
食事を済ませてタクシーですり鉢の底から上がってくると眺望が開け、町全体が見渡せたが、海は見えなかった。吹き渡る風がスコットランドより心持ち温かく、気分が軽やかになった。
アイルランドを訪れると感じるこの軽やかな楽しさ・心地良さ、包み込まれるような安心感。それがどこから来るのか調べたことがあった。この国にはたくさんの妖精がいるのだ。
キリスト教が伝わる前、この国に住んでいたケルト人たちは、他の地域のケルト人同様、ドルイド教に帰依し、自然界にある全てのものに精霊が宿っていると信じていた。この宗教観がこの国に妖精の存在を感じる感性をもたらした。
スコットランドもケルト人の国であったが、12世紀以来のノルマン王朝との交流とともにケルトの気質が薄くなっていったと言われている。アイルランドで発達したキリスト教は、ドルイド教を包含していると言われており、その分神秘性の高いケルト文化が残ったのだろう。
いい年をした大人が妖精のことを語るのは変な感じだが、この国にはそれを恥ずかしいと思わせない特別な空気が流れている。パブのカウンターの上に、路地を一歩入ったところに、確かに気配を感じてしまうのだ。
気配は奇怪なもの、険しいものではなく、包み込まれるような温かさである。飲んでいる時の方が感性が鋭くなり、より妖精の存在を感じられるようになる。そして、酔いとともにここにも、そこにも、あちらにもとどんどん数が増えて行く。この妖精との遭遇体験によって、アイルランドに深く魅入られる人々も多いらしい。この国で飲むお酒はそういう意味で特別な感懐をもたらす。
アイルランドなまりの英語は、国民性と同じく柔らかい。モーニングコールは女性スタッフのそんな声だった。今日はアイリッシュウイスキーの聖地、ミドルトン蒸溜所に行くのだ、と胸が高鳴った。
前回、アイリッシュウイスキー業界が存亡の淵まで追い詰められた直接的な原因を、1920年からのアメリカ禁酒法、1922年の大英帝国市場からの締め出し、と述べたが、実はアイルランドは国内でも大きな難問を抱えていた。大英帝国市場からの締め出しの原因となったアイルランドの独立運動の激化である。
この当時、大英帝国との関係、アイルランドの独立の仕方などで立場の違うアイルランド人同士が反目し合い、また武装蜂起も度々起きた。その中で1922年にはアイルランド南部26州がイギリス国王を元首とする自治領(ドミニオン)アイルランド自由国として分離した。1937年にはアイルランド憲法が公布され、国名をエールへ変更した。そして、1949年には共和制国家アイルランドの成立が宣言され、英連邦から離脱した。
アイリッシュウイスキーに戻ろう。
1966年、コーク・ディスティラリーズ、ジョン・ジェムソン、ジョン・パワーズのビッグ3が合併してアイリッシュディスティラーズが誕生した。72年には北アイルランドのブッシュミルズ蒸溜所が合流して、ついにアイルランドで蒸溜所を持つウイスキー会社は1社になった。
ブッシュミルズブランドは別として、新生アイリッシュディスティラーズは合併の効果を上げるため、蒸溜所の統合を行った。ジェムソンのボウ・ストリート蒸溜所、ジョン・パワーズのジョンズ・レーン蒸溜所はマローボーン・レーン、トーマス・ストリートの各蒸溜所とともにダブリンのビッグフォーと呼ばれたが、マローボーン・レーンの破産による1923年の閉鎖から始まったビッグフォーの終焉は、1926年のトーマス・ストリートのやはり破産による閉鎖、1971年のバウ・ストリート閉鎖、そして1974年のジョンズ・レーンの閉鎖を最後に完結したのであった。
合併した3社が保有していたブランドを上げると、ジェムソン、パワーズ、パディー、タラモアデュー、レッドブレスト、グリーンスポットなどの他にも何十もあった。それらをつくり分けて行くには、必要なタイプの原酒をつくり分けられる新しい蒸溜所が必要であった。十分なスペースが確保できるコーク・ディスティラリーズのミドルトン蒸溜所の隣接地に、アイリッシュウイスキー業界の総力を結集して建設されたニューミドルトン蒸溜所が稼動し始めたのは1975年であった。
新蒸溜所は、アイリッシュウイスキー業界がスコッチに屈したスコッチブレンデッドを十二分に意識した設計である。
スコッチが個性の強いモルトウイスキーとライトでスムーズなグレーンウイスキーをブレンドした香りと味わいの両方をバランス良く設計した画期的なウイスキーを世に出した時、ダブリンやコークのアイリッシュウイスキー業者は頑なにブレンデッドを否定し、伝統の3回蒸溜のポットスティルウイスキーにこだわった。ブレンデッドウイスキーはウイスキーではないと訴訟を起こしもした。しかし、スコッチブレンデッドは消費者の支持を集めて行く。
スコッチブレンデッドが税法的に認可されたのは1860年であった。
アイリッシュのモルトウイスキーに相当するポットスティルウイスキーがなぜスコッチブレンデッドに勝てなかったかは、両方を比べてみれば一目瞭然である。
スコッチは、現在人気を集めているシングルモルトにせよ、シングルモルトを何種類かブレンドし、それにやはり何種類かのグレーンウイスキーを加えたブレンデッドにせよ、香味の多彩さと深みがある。対してアイリッシュは香味の深さはあるが、多彩さ、特に果物様、クリーム様、麦芽様、脂肪様などの存在がスコッチほどはっきりしない。
スコッチにその味わいをつくれたのに、なぜアイリッシュにつくれなかったのかを理解するには、両方のウイスキーの出自を比較する必要がある。それはこの後のスコッチウイスキーの章で詳しく触れることにして、追い詰められたアイリッシュウイスキーのその後をたどって行こう。
世界で最も売れ行きが伸び、しかも販売数量で世界トップ10に入るウイスキーがある。ブランド名は「ジェムソン」。そうあのダブリンのボウ・ストリート蒸溜所で生産されていたウイスキーである。
このウイスキーは1968年までは、何と瓶詰されないで出荷されていた。原酒を購入した保税業者が瓶に詰めて出荷していた。ジェムソン社の品質管理は厳密を極め、これら保税業者の瓶詰した製品をも対象にしていた。増量のためジェムソン以外のウイスキーを使用した場合など、即時取引を停止した。
1805年創業のジョン・ジェムソン&サンズのボウ・ストリート蒸溜所は、1800年代末には大英帝国で最高の品質であり、最も有名という評価を得ていた。実は、創業者ジョン・ジェムソンはスコットランド人であり、結婚した妻はスコッチウイスキーの名門ヘイグ家とスタイン家と繋がっている。これについてもスコッチウイスキーの章で紹介したい。
今回ご紹介するのは、製品ではなく、アイリッシュウイスキーのカクテル、アイリッシュコーヒーである。
アイリッシュウイスキーが困難な状況を凌ぎ切ったのは、広く飲まれていたアイリッシュコーヒーにこのウイスキーが絶対不可欠であったからで、つまりアイリッシュコーヒーによって救われたという話が囁かれもした。
確かにギネスの泡と同じ密度が最も良いとされているホイップした生クリーム、コクのあるコーヒー、芳ばしいブラウンシュガーと相性がいいウイスキーは、オイリーで濃密な麦の香味を持つアイリッシュウイスキーであることは多いに納得できる。スコッチウイスキーでは香味が華やか過ぎて、コーヒーとクリームが生きてこない。
きちんと煎れられたアイリッシュコーヒーの深い味わいは、特に気温が下がる季節には五臓六腑に染み渡り、人生の哀歓を感じさせる。だがそれだけではない。もたらされるのは、最初は安らぎだが、それから徐々に気力が満ちてくる。そして覚醒。
自分で作ってももちろん構わないが、アイリッシュコーヒーがカクテルの一種であることを考慮すれば、やはりバーで味わうといいだろう。
第2次世界大戦終了後に陸上機が導入されるまで、大西洋航路は飛行艇が飛んでいた。アイルランドにはベース空港フォインズがあった。悪天候で引き返すことも珍しくなかった。1942年の冬に生まれたこのカクテルは、凍え切った乗客のために同空港のレストランのシェフ、ジェリー・シャリダンによって考案された。度数は18%、食後のカクテルだが、私は仕事が終わった後、食事前に飲んでもいいと思う。
(サントリースピリッツ社専任シニアスペシャリスト=ウイスキー 三鍋昌春)
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