アイリッシュからスコッチへ ウイスキー普及の歴史
世界5大ウイスキーの一角・ジャパニーズ(4)
「ウイスキーの起源への旅」で私が見出した結論は「ウイスキーはアイルランドで誕生したに違いない」であった。そのアイルランドがかつて世界最大・最強のウイスキー生産国であったことは案外知られていない。それが今はスコッチに王座を奪われてしまった。いったい何が起きたのだろうか? それを知るきっかけとなった旅から話を始めたい。評価が高まる国産ウイスキーへと至るウイスキーの歴史と魅力をひもとく本連載、今回もアイリッシュの物語から……。
私が初めてアイルランドを訪れたのは1991年であった。当時のアイルランドはEUの中での存在感はまだ希薄で、エディンバラのパブで聞いた例のウイスキーの故郷という話がなければ多分興味も湧かなかったと思う。
小泉八雲とギネスを除けば、アイルランドとの出合いは留学先で一緒だったアイルランド人学生たちであった。私が留学したスコットランド、エディンバラのヘリオット-ワット大学は、英語圏で数少ない醸造・蒸溜の専門課程を持っておリ、酒類食品業界に多くの人材を供給してきた。その課程で学ぶ外国人留学生は数多く、その中にアイルランド人学生もいた。
一番活発なのがアメリカ人、イングランド人は口が達者で議論に強く、アメリカ人も一目置いていた。最大勢力の地元スコットランド人は人懐こく親切だった。ただ、イングランド人と一緒にパブへ行くことは稀だった。アフリカ勢も多く、企業からの派遣学生がほとんどだったが、既に酒造りの知識も経験もあり、学業よりもプライベートの方に熱心だった。そんな中、アイルランド人学生は皆遠慮がちで学生の中で存在感が希薄だった。だが、正直で、相手を包み込むようなやさしさを感じた。
10月だった。その日、ダブリン空港に到着した私は当時提携していたアイリッシュウイスキーの会社を訪ねた。迎えてくれた生産部長と研究所長、マスターブレンダーからそれぞれの担当分野についてのレクチャーを受けた。
1991年当時、アイルランドにはウイスキー会社は2社、蒸溜所は3ヶ所しかなかった。2社のうちの1社は1987年設立の若い会社と蒸溜所で、伝統を引き継いできた会社は何と1社になっていた。
なぜそうなったかを聞く前に私はアイリッシュウイスキーに魅了された。テイスティングした原酒や製品は穏やかで甘口だったが、深味があった。数十種類のサンプルをまとめてテイスティングした私にとって、なぜアイリッシュウイスキーが衰退したかへの関心は消えていた。今、目の前にこれだけの素晴らしいウイスキーがあることが現実の全てだった。
テイスティングの後、夕方のラッシュが始まる前に私たちはダブリンを後にして、南西およそ300キロに位置するコークに向かった。そこにある巨大蒸溜所を訪問するためだ。
まだ高速道路は完全に整備されておらず、一般道も通った。小さな集落にもパブがあり、4時過ぎだというのに、どこもよく客が入っていた。
10月のアイルランドの日没は駆け足でやってくる。運転はダブリンからずっと研究所長だった。生産部長は助手席だ。日暮れとともにウイスキー屋同士の技術論の興奮が少しずつおさまってきた。
しばらくして、私は当時日本で起きていたウイスキー販売数量の落ち込みの話をした。その話をじっと聞いていた生産部長がぽつりぽつりと話し始めた。
彼の勤める会社は3社のウイスキー会社が合併してできたこと。その後、最後に残った2社が一緒になり1社になってしまったこと。
会話が途切れてしばらく経った。私は一息吸ってから質問した。アイリッシュウイスキーがそこまで追い詰められたのはどうしてなのですか?
しばらく考えている様子が窺えた。その後、一言、「原因は色々ある」。
すると、研究所長が生産部長を助けるかのように話し始めた。大きな影響を与えたのは、最大市場である大英帝国連邦諸国からの貿易締め出し、2番目に大きいアメリカ市場での禁酒法の施行、節酒運動の高まり、ジャガイモ飢饉などだが、最大のインパクトはスコッチウイスキーの伸張だと。
ここでアイリッシュウイスキーの歴史についておさらいしてみよう。ウスケバーがウイスキーと呼びならわされて酒として普及して行った点はスコッチもアイリッシュも同じであった。
ウイスキーという観点からアイリッシュに有利だったことは、アイルランドが1171年のヘンリー2世の侵攻以降、イングランドの支配下に置かれるようになったことだと考えている。スコットランドは1603年に同君連合、1707年に連合王国になるが、イングランドに支配されていた訳ではない。
スコッチはスコットランドの地酒であり、外国であるイングランドに輸出されるようになるのは19世紀に入ってからだ。
一方、アイルランドはイングランドの植民地であった。ウイスキーについても、スコッチがイングランドに輸出されるはるか以前から輸出されていた。
利益を上げるためにはイングランド人が好む味わいに仕上げる必要がある。イングランド人の好みの原点はワインやブランデーにあるなめらかさ、甘さであった。それをアイリッシュウイスキーはいち早く実現したのである。アイルランド伝統の蒸溜技術も大きな役割を果たした。
1541年の記録が知られている。スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位するきっかけをつくったイングランド女王エリザベス1世の宮廷では、アイリッシュウイスキーが飲まれていた記録がある。また女王時代のイングランド人作家が「ウスケバーはイングランドのアクアヴィテよりおいしい」と記述している。
1608年にはジェームズ1世がアイルランド、アントリム地方の蒸溜所に初めての蒸溜免許を下賜している。
1661年には、英国政府がアイリッシュウイスキーへの課税を開始する。
18世紀初頭には、ロシアのピョートル大帝が「世界の全ての酒の中でアイリッシュのスピリッツがべストだ」と宣言している。
1755年に「文壇の大御所」、イングランド人文学者サミュエル・ジョンソンが刊行した『英語辞典』のウイスキー(Whiskey)の項には以下のように書かれている。
「アイリッシュ産は心地よくまろやかな香味が特に際立っている。ハイランド(スコットランド)産は、多少荒い。そして、Whiskeyとすべきところを訛って Whisky としている」
アイリッシュウイスキーが心地よくまろやかな酒質を獲得した理由は、蒸溜回数に拠るものと思われる。蒸溜釜で1回より2回、2回より3回と蒸溜を繰り返すとどうなるか? その度にアルコール(エタノール)の純度は上がり、度数が高くなる。純度が上がれば、苦味、渋み、エグミ、ピリピリ感などをもたらす成分を大幅に減らすことができる。アイリッシュはこれに目を付けた。3回蒸溜の始まりである。
スコッチが取った戦略は、アイリッシュとは全く異なった。いずれ、スコッチの項で詳しくお話ししたい。
1779年、アイルランドの免許登録蒸溜所の数は1,228カ所に上った。そして、大都市に集中し、大規模化していった。
今回お奨めするウイスキーは、タラモアデューである。
1829年開設のタラモア蒸溜所の原酒を使って生まれた。売れ行き不振で蒸溜所は1954年操業停止。ブランドはアイルランドに残った1社に移り、コーク郊外の巨大蒸溜所の原酒でつくられて来たが、1994年に再び売りに出される。買い取った会社も2010年に手放してしまう。
買収したのはグレンフィディックで知られるウィリアム・グラント社。同社は2014年に新設のタラモア蒸溜所をオープンしたので、いずれ原酒はその蒸溜所のものに代わる。伝統の3回蒸溜のポットスティルウイスキーとグレーンウイスキーのブレンデッドというスタイルは今後も踏襲されると思われる。
変転極まりないアイリッシュの哀切さと新たな息吹を感じさせる繊細でおだやかで充実した味わいを楽しんでいただきたい。
(サントリースピリッツ社専任シニアスペシャリスト=ウイスキー 三鍋昌春)
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