生涯賞金8億円 ボートの女神は元信金職員
生涯獲得賞金8億円あまり。ボートレーサー、日高逸子(52)は男性優位の業界の波をかきわけ、出産という一大事を乗り越え、女性選手を代表する地位を築いた。宮崎県の信金で机に向かう生活からバトルの場へ、百八十度の"高速ターン"を決めたその航跡をたどってみよう。
ボートレースは男女混合でレースを行うまれなスポーツの一つだ。女性は男性より3キロ軽いハンディをもらえるが、そのほかは船体もエンジンも全く同じ条件で戦う。
ボートレースが始まった1952年から女性にも門戸は開かれていたが、日高が23歳でデビューした1985年時点ではまだ、男性優位の雰囲気が残っていた。
女性のコース取りに厳しい目
宮崎県出身の日高は九州のレース場を拠点にしていた。「九州というところ自体、男尊女卑の気風が残る土地柄だったので……」
ボートレースは転回時に内側をとるか、外側を回るかというコース取りが勝負どころになる。1レースに出走するのは6艇。その6艇の間で、スタート前から駆け引きが行われる。
しかし当時、女性選手は最初に決まった自分の枠にしたがって針路をとるのみ。内側に切り込んでコースを取るなどということは「ありえなかった」と言う。
日高も駆け出しのころ、コース取りをとがめられた。ルールでは決まっていなくても「選手道、みたいなのがあるんですね。私もまだわかっていなかったものだから」。
女性選手の先輩には「同じレースで戦うのに女も男もない」と、遠慮なく攻めていく猛者もいたが、日高は無理はしなかった。それでも勝てるようになったのは人の2倍も3倍も練習したからだという。
宮崎県の高校を卒業してすぐ、信用金庫に就職した。地元の誰もがうらやむ堅い仕事だったのに「机に向かう仕事は性に合わない」と1年で辞め、上京。スイーツ作りが好きで修業を始める。
しかし、朝から晩まで働いても月10万円程度にしかならない。手に職をつけたところで、自分の店を持てるのはもともと菓子店を営む家の子弟にほぼ限られる、という現実もみえてきた。
東京には出てきたものの……と沈み始めたときに、テレビのCMでレーサー募集の広告を見た。ボートレースのボの字も知らなかったが、すぐに応募の電話をかけた。「『平均年収1000万円』ですよ。テレビで言ってるんですから、間違いありません。私は田舎の出身だし、素直に信じました」と言う。
縁もゆかりもない世界に飛び込んで成功したのだから天分が備わっていたのに違いない、と思われるが「全然、才能はありません。ペラをたたく(プロペラを調整する)のも本当に下手」。
ボートレースには操縦術、駆け引きのほかにもう一つ、プロペラなどを自分で整備するという勝負ポイントがある。
ボートにとりつけられるエンジンには"当たりはずれ"があるため、公平を期して抽選で決める。センスのいい選手はエンジンが少々まずくても、そのエンジンに合うようにプロペラをたたいて最大の推進力を得られる形状にできるが、日高にはどうたたけばいいのか見えてこなかった。ひたすらボートに乗って練習することに活路を求めるしかなかった。
男性が体重50キロまで落とせるのに対し、女性は47キロまで減量できる。それより重くてもレースには出られるから、つい甘えが生じる選手もいる。しかし、日高は唯一のハンディを余さず利用するため、常に47キロぎりぎりに落として戦う。
育児も大切、仕事も大切
2女の母で最初の子供を産んだのが、デビュー13年目の年。レーサーとしての勝負どころにさしかかっていた。
レーサーにはクラスがあり、B2、B1、A2、A1と上がっていく。クラスが低いとレースの賞金が安く、出場できるレースの数自体が少ない。クラスが上がるに従ってどんどん稼げるようになる仕組みだ。
この階段をかけあがる途中に育児がぶつかった。出産後3カ月もたたないうちに、レースに復帰したのはブランクの長さが致命傷になりかねなかったからだ。
「この仕事は休んだら休んだだけ下手になる。選手によっては子供を生んだあと1年休む人がいますが、私にはそんなに休むなんて考えられなかった。B級のままでいいや、となったらいくらでも休んでいたと思いますが、上のレベルで戦いたいっていうのがあったんです。子供も大事だけれど、自分も早く復帰したかった」
夫が専業主夫として支えてくれたが、授乳期はつらかった。レース開催中は不正防止などの目的もあって、選手はレース場近くの宿舎に缶詰めになり、外部との連絡を断たれる。乳飲み子なら入れてもいいでしょう、という甘い世界ではない。
選手は全国の開催地を転戦し、1週間レースに出ては1週間休む、といった生活パターンを繰り返す。「もうすぐレースに出かけていなくなるというのは赤ちゃんでもわかるんですね。目が潤んでいるんです。それを見るとああ、やめたとか、子供と一緒にいたい、とか思います。でも(そんな気持ちを抑えるのも)プロには必要なんで」。レースの期間中、飲み手のいないお乳が張ってくる。宿舎で搾って冷凍し、レース最終日に夫に送った。子供に会えるまであと3日、2日と、指折り数えていた。
「ママさん選手なら誰でもやっていること」と当人はあっさりしたものだが、この我慢がレース人生の勝敗を分けたようにもみえる。レーサーとしての才能がないと言いながら、男性選手と対等に渡り合うことを可能にしているものの姿が垣間見える。
現在最高クラスのA1級に属しているのは325人で、うち女性が20人。成績に応じて算出されるポイントに応じ、半年ごとに入れ替えがある。このA1級の地位を日高はずっとキープし、女性では歴代2位にあたる賞金を獲得してきた。
レースに打ち込んできた母親について、中学生になる下の娘さんが「かっこいい。あこがれる」と話したことがあるという。「何かの取材でそう答えるのを見て、ああ、そんなふうに思ってくれていたんだって」。幼心には寂しい思いをさせたかもしれないが、戦う母、強い母であることを選んで間違いはなかったようだ。
たいがいのスポーツではベテランの領域に入ると、肉体的に衰える代わり、熟練の技とか駆け引きのうまさといった年金のような"恩典"が与えられることになっている。
日高もかつてはそうなるものとあてこんでいた。ところがどうも違うらしい。
この先明るい材料はなし それでも……
絶対的なスピードが落ち、ハンドル操作の切れも鈍くなってきたと感じる。スピードに対する恐怖も出てきたという。シーズンを重ねれば重ねるほどレース巧者になっていくということなど、幻想にすぎなかったのかもしれない。
レースの要素の半分は人間で、半分はボートというマシンに委ねられていると考えると、むしろ他競技より年功が生きる競技ではないかとも思われるのだが、少なくとも日高にとってはそうではなかった。
年季を加えてよくなったことといえば、全速ターンをして転覆するとか、はやるあまりフライングを犯すといった「血気」ゆえのミスがなくなったこと。それと"はずれ"のエンジンに当たったときに「前の開催ではいいのが当たったし、このエンジンとはどうせすぐサヨウナラだし」といった切り替えができるようになったことくらいだ。
そうした小銭のようなプラス材料をかき集めたところで、年齢からくるマイナス分は到底埋め切れない。
だとしたら、この先どうなるのか。暗いことばかりになってしまうが?
「暗いです。だって年をとること自体暗いことではないですか。これから若くなるのではなく、老いていくんですから。目は悪くなるし、運動神経も鈍るし、ああ、こういうことが老いるってことなんだな、と最近わかってきました。これからうまくなることはありません。いかにこれ以上下手にならないようにするか……」
しかし、本人が言うほど暗く感じられなかった。夢や希望的観測をまじえず、掛け値なしの現実と向き合えばこその言葉がすでに、「まだまだ」という闘争宣言になっていたからだろう。(篠山正幸)
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