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私の履歴書復刻版

最終回 会長退任、決意新たに(下) 松下幸之助(パナソニック創業者)

2012/1/30

松下幸之助 パナソニック創業者

 今回の「私の履歴書」では、昭和25年7月に、会社再建への道を歩み始めてから、四半世紀に近い昭和48年末までの期間を述べたが、その過程にはいろいろの波乱はあったにしても、今振り返ってみると、だいたいにおいて、高度経済成長の日本の歩みの中でのことであった。

 ところが、私が48年7月に相談役に退いて半年もたたぬ間に、予期せぬ石油ショックが起こり、世界も日本も大ゆれにゆれ、政治も経済も混迷の極に達した。私は先の会長退任のときのあいさつの結びとして「とらわれない心にたてば、風にも雨にもまた天気の場合にも、それに処する道というものは自由自在に生まれてくる。一つのことにとらわれてしまうと、天気のときはよかったけれども、雨のときには困る、風のときは困るというようなことになって、決して事業というものは成功するものではない」と述べたのであるが、それから数カ月して、雨風どころか日本全体が大暴風雨にさらされることになったのである。戦後30年にして日本の政治、経済、社会の各面にわたる甘えととらわれのツケが、一度にふき出してきたような感じであった。

 だから私としても、国情が急転しつつあるときだけに、経済人としてまた一国民として、これにいかに対処していくか、日本の国家の経営をいかに考えるべきかなどの問題についても、考え行動すべきことが山積みしているように感じたのである。そのことを書いていけば、これはこれなりでかなりのものになると思うのだが、紙数もようやく尽きたので、今回は一応ここで打ち切ることにしたい。

 さらに言えば、今回の履歴書では、経営者としての事業における私の歩みが主体になって、一人の人間としてのいわば人生的な感懐というものにまでふれることができなかった。これもまた合わせて次の機会に譲りたいと思う。

 いずれにしても、私はいまこんなことを考えている。私は明治生まれであるが、明治生まれの人間は、明治、大正、昭和と生き抜いて、つねに社会の指導者層を形づくっていたように思う。かつての太平洋戦争にしても軍部に責任があったというが、もっと大きな意味では明治人の責任であるとも言えよう。そして、戦後の再建を緒につかしめたのも、明治生まれの人である。その人たちが、いまや高齢になり、一番若い人でも69歳以上になってしまった。そういう人たちがボツボツ第一線を引こうとしている。いつまでも先頭に立っていては、若い者に対して悪いというような引っ込み思案になっているように思われるのである。

 しかし私はそれではいかんと思う。いま日本がうまく理想的にいっているのだったら、それでもいいけれど、いまはまだ、戦後の三十有余年の復興というものが理想的に出来ていないのである。高度成長そのものはよかったけれど、それに関連するいろいろな問題が起こってきているのである。どちらかというと今までの復興は、一方的復興、物質的な復興だけで、物心両面の復興になっていない。それなのに、われわれが功なり名遂げた形で下がっていってよいのだろうか。言うなれば片一方の輪が不完全な車をつくっておいて、大正や昭和生まれの人に、あとはうまくやってくれと言っているようなものである。これは卑怯【ひきょう】だし、無責任だと思う。だから、私は私なりの責任を果たさねばならないと考えている。

 そんな思いで、終戦30周年の昭和50年、私はもう26年生きようと決意した。そうすると、19世紀、20世紀、21世紀と3世紀にわたって生きることになる。その26年間に、新しい21世紀に向けて、日本はどういう姿でなければならないかということを、国民の1人として真剣に考えたいという思いがフツフツとわいてくるのである。

 この話は、昭和50年の終戦30周年の記念講演会でもしたし、勲章をもらった人たちの集まりである大阪褒綬会でも話した。明治生まれの人が勲章をもらって引っ込む時期ではないというわけである。みなさんはどう受けとられたか知らないが、私はそんなことでいま非常に若々しい気分でいる。いうなれば、私の新しい履歴が、これから始まろうとしているともいえよう。

 この連載は、昭和31年8月および昭和51年1月に日本経済新聞に連載した『私の履歴書』をまとめた本「松下幸之助 夢を育てる 私の履歴書」(日本経済新聞出版社)を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。文中には今日、差別的とされる語句や表現がありますが、作者が故人であり、作品の発表された時代的・社会的背景も考慮して、原文のまま掲載しました。

[日経Bizアカデミー2012年1月30日付]

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