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私の履歴書復刻版

第26回 過疎地振興と万博「松下館」(上) 松下幸之助(パナソニック創業者)

2012/1/19

松下幸之助 パナソニック創業者

昭和43年10月、私はたまたま四国の高知県へ行く機会があった。関西の経済界が高知県の経済人と合同会議を行なったのに参加したわけだが、会議後の懇親会で、地元の人から「われわれはいま非常に寂しい思いをしている」という話が出された。

寂しいとはどういうことかな、と思ってよく聞いてみると「高知県の人口は年々7000人ほど県外へ流出している。10年前には90万人近かった人口が、今日では80万人に減ってしまった。しかも、その傾向はさらに強まり、特に将来をになう若者が、どんどん都会へ出て行ってしまい、中には一つの村全部が消滅してしまったところさえある。われわれ地元で事業をやっていても、県の人口が減るということは、なんとはなしに寂しい。このままでいったら将来どうなるのだろうかと、不安である。なんとか人口を維持し、この県をより発展させる道はないものかと思案している。しかし、われわれ県民の力だけでは力及ばず、どうすることも出来ない」ということであった。

万博「松下館」の開館でテープを切る

ところが、われわれが住む大阪ではどうかというと、こちらはしだいに人口がふえてきて、いまではふえすぎて困るぐらいである。これ以上ふえたら過密状態になって、身動きがとれなくなるのではないかと頭を悩ましているのが現状なのだ。だから、人口が減って寂しいと感じることなど、お互いに夢にも考えたことがない。そこへそんな話を聞いたものだから、非常に胸を打つものがあった。

なるほど、高知県の人たちの立場になって考えてみたら寂しいことだろう。もし大阪で、どんどん人口が減っていくと想像してみたら、やっぱりそんな感じになるな、とつくづく考えさせられたのである。

これからは、積極的に地方へ工場を建てて、若い人たちに郷土で働ける機会を与えてあげないといけない。有為な若者たちが、みんな大都会へ出てくるのは、働くところがないからだろう。人口の過疎過密を解消する一つの方策として、ぜひこれはやらなくてはならない。

企業は、これまで工場を建設する場合、まず第一に経済性ということを考え、立地条件のいいところを選ぶのが普通であったと思う。そのことは、すぐれた製品をより安く需要者に供給するという企業の使命、社会的責任という点からみて、一面当然のことといえる。しかし、今日の日本の現状に立って考えるとき、これらはたとえ多少経済性が劣るということがあっても、あえて人口の減少が著しい県へ工場を建設していくことも必要になってくるのではないだろうか。それが、より高い立場における企業の使命として、今日要求されているのではないか――私はこう考えて、経済性は第二義としても、過疎地に工場を建てていこうと決心したのである。

調べてみると、人口の減少率の一番高いのは島根県だが、絶対数で一番多く減っているのは鹿児島県であった。年々1万人以上もの人が県外へ流出しているという。そこで私は、まず鹿児島県に工場をつくろうと決めて、そのことをある席上で話した。そうすると、早速、翌日の新聞に報道され、鹿児島県からは私のところへ電報が届けられ、知事からも商工会議所からも“ぜひ来てほしい。県をあげて歓迎する”という丁重なお誘いまで受けた。それほどみなさんは、過疎というものを切実に感じておられたのである。

その後、私のこの考え方にもとづいた工場は、鹿児島県の伊集院町をはじめとして、全国各地に展開され、現在では、九州・四国の全県に工場が完成し、工場のない県は全国で10県だけとなった。そして、それぞれの工場は、地元から非常に喜んで迎えられただけあって、いろいろな面で、惜しみない協力と理解を得ることができ、すべてにわたって、立派に成功を収めてきている。

こうした過疎過密の問題は、日本が20世紀に直面した大きな課題の一つであると思う。これが行き過ぎると、日本の発展は単に経済面ばかりでなく、政治上あるいは治安上においても、大きく損なわれてくる。お互いが、これ以上の人口集中は避けねばならないという基本に立って、国をあげて真剣にその対策を講じ、それに取り組む必要があるのではなかろうか。そうすることによって、日本全体がバランスのとれた好ましい発展をすることにつながると思う。

昭和45年、日本万国博覧会が、大阪の千里丘陵で開かれた。この国際的な催しに、松下グループも参加することになったのだが、果たしてどういう形で参加すればよいか、あれこれと考えあぐねた。しだいに日は迫ってくるし、各企業体では、それぞれ参加表明をすると同時ぐらいに、具体的テーマを出し、具体的な構想を固め始めたから、松下グループとしても率先参加するからには、急がなくてはならない。世紀の国際行事にふさわしい姿で参加したいものだ、といろいろ考えてみたが、これといっていい知恵が浮かんでこない。社内はもとより多くの人の意見も聞いてみたが、決め手になるものは出てこなかった。

そんなある日、たまたま私を訪ねて来た人が見せてくれたパンフレットの1枚の写真が、私の目に留まった。それは、いまはもうお亡くなりになったが、建築家の吉田五十八さんが設計された奈良・中宮寺の御堂の写真だった。一瞬、私は“これがいいなあ”と思った。“よし、これを見本に松下館の設計をしてもらおう”と決心して、さっそく設計者の吉田五十八さんをお招きし、お願いをしたのである。「先生は中宮寺の設計をおやりになったのでしょう」「そうです」「あの中宮寺の感じを松下館に出してもらえませんか。そのままではなくて、周囲を全部池にして、池の中に浮かぶような感じで、中宮寺の御堂を模した松下館を設計していただきたい。その他のことはすべてお任せします」。

そんなことがあって、これがいざ完成してみると、さすが吉田先生である。池の面に美しく姿を映した松下館は、周囲の竹林とうまく調和して、荘重な中にもやさしさをたたえた日本建築ならではのよさを存分に感じさせてくれた。そのたたずまいは、松下館を訪れる人たちに、日本的な心のやすらぎを十分に与えてくれたことと思う。

松下館の内部は「伝統と開発」というテーマにふさわしく、現代文化を5000年後の人々に伝えるタイム・カプセルを展示した。このタイム・カプセルは、もともと、松下電器の創業50周年記念事業の一つとして、毎日新聞社と共催で企画したものだが、世界中の人がやって来る万国博に展示することの意義を考えて、これも出品することにした。5000年後というと、気の遠くなるような先のことだが、5000年間、現代文化を無傷のまま保存し伝えるということは、大変な技術力と知恵のいる仕事である。そのために、当時の日本の最高頭脳とされる諸先生方のお力添えを得ることにし、技術委員長は東京大学名誉教授・日本学術振興会会長の茅誠司先生、選定委員長は大阪大学名誉教授の赤堀四郎先生にお願いした。そして、それぞれ技術委員会は23人、選定委員会は27人の先生方のご指導のもとに、現代文化を5000年後に伝える仕事に取りかかったのである。

松下館のもう一つの呼びものは、幽玄な琴の調べに包まれていただくお茶であった。万国博会場の見学に疲れた人たちや、日ごろは本格的なお点前などに接する機会の少ない人たちが、京都・先斗町、大阪・北と南の新地の芸者衆の演じるお茶の作法に、しばし時を忘れ、ノドをうるおしてくださった。

日本文化のもつ美しさというか、奥ゆかしさを私は松下館に表現したいと思っていたが、日本の伝統建築美を取り入れた外観や茶の湯に伝わる日本の伝統精神によって、それは立派に表現できたと思う。会期中海外から、各国の王女さまや元首、学者など多くの要人が松下館を訪問してくださった。私はその来館されたうちのほぼ半数の方のご案内役をさせていただいたが、日本精神の尊さを、どなたも感嘆しておられた。せっかく日本で開かれた万国博であるから、単にお祭り騒ぎに終わらせることなく、日本のよさをご理解いただけるものにしたいという私の考えを少しは果たせたものと思う。

このように幸いにも、連日多数の入場者の方々をお迎えすることができ、みなさんに喜んでいただけたことは私自身としても、大変うれしく思った次第である。

この連載は、昭和31年8月および昭和51年1月に日本経済新聞に連載した『私の履歴書』をまとめた本「松下幸之助 夢を育てる 私の履歴書」(日本経済新聞出版社)を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。文中には今日、差別的とされる語句や表現がありますが、作者が故人であり、作品の発表された時代的・社会的背景も考慮して、原文のまま掲載しました。

[日経Bizアカデミー2012年1月19日付]

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