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「エキナカ事業」の立ち上げ人として知られる鎌田由美子さん。25年間勤務したJR東日本を退社し、2015年2月からカルビーの上級執行役員になりました。「男の職場」からダイバーシティ(多様性)あふれるオフィスに。これまでにない空間やサービスを生み出してきた鎌田さんの歩みと、ステップアップのきっかけとなった出来事について、改めてうかがいました。

職場に女子トイレのない時代に就職

――少し古い話をうかがいます。鎌田さんは日本女子大学の社会福祉学科を出られて、バブル期の1989年にJR東日本に入社されていますね。どうしてJRを第一志望に選ばれたのでしょうか?

JRは1987年に国鉄が分割民営化されてできた会社です。当時はとにかく会社を立て直さなくてはならないということで、再生への意欲も高く、何にも挑戦できそうというところにひかれました。入社案内のパンフレットに「上野駅が変わります」と印刷されていたのを覚えていますが、ちょうど、これから駅もバリアフリー化されて変わろうという時代。社会福祉を学びながらも福祉以外の道へ進もうと考えていた私にとって、そこはすごく魅力的でした。

もう1つの理由は一般職と総合職の区別がなかったこと。当時はバブルで男性はどこも引く手あまたでしたが、女性が一般職に応募しようとすると、必ず太字で「自宅通勤のみ」と書いてありました。実家は茨城県でしたから、自宅通勤はとても無理だと思いました。

――同期の女性は何人くらい、いらっしゃったんですか?

同期全体でたしか200人半ばくらいいたと記憶していますが、そのうち女性は30数人でした。当時としては、けっこう思い切った採用だったと思います。前年に民営化初の大卒を採用しまして、そのうち女性は2人だけ。前年入った女性は2人とも理系でしたから、私の入社した年というのは、JR東日本が男女ともに文系を採用した最初の年だったんです。

女性社員比率はまだ1%未満で、同期2人と上野駅にある旅行センターに配属されたのですが、駅長も助役も大変だったろうと思います。急遽、倉庫を潰して女子ロッカーを作らないといけなかったり。職場に女子トイレがなかったものですから、最初のうちは駅のトイレを使わせてもらっていました。今のようにトイレットペーパーはないし、長蛇の列でしたから、不便でしたね。

就職活動よりも必死だった"出向活動"

――その後、25歳で志願して百貨店に出向されます。これは、どういう理由だったのでしょうか。

入社3年目でしたから、なんて大胆な行動をとったのかと思いますが、当時はとにかく必死だったんです。

旅行センターの後、本社の開発へ異動したんですが、自分のあまりの力のなさに愕然としました。JR東日本としても、これから経験のない流通に乗り出さないといけないのに、自分にはまったく知識がない。今のようにインターネットもありませんし、百貨店に勤めている知り合いもいない。勉強したいと思えば、顧客として店舗を見て回るしかなかったわけです。

振り返ると、この出向は大きな財産になりました。同じ会社の、同じ社員という立場の人たちと働く世界を飛び出して、百貨店といういろんな立場や雇用形態の人たちが働いている世界を見ることができましたから。女性も多いですから、背負っている人生も多種多様。そういう人たちと一緒になって売り場に立ち、休憩時間にいろんな話を聞けたのは、とても良かった。あとで自分がマネジメントする立場になった時に、どうすれば現場の人たちに快適に働いてもらえるか、を考えるヒントにもなりました。

「総論賛成・各論反対」を突破するには、見せるしかない

――鎌田さんが30代で手がけたエキナカ事業は、それまであった駅の概念を根本から覆すものでした。JR東日本は6万人を超える巨大組織ですから、説得して動かすのは大変だったのではありませんか?

エキナカ事業はもともと、JR東日本が掲げていた「ステーションルネッサンス」という中期計画に基づいていました。21世紀に向けて、駅の可能性をゼロベースで見直す。そのために打ち出したのが「通過する駅から集う駅へ」というコンセプトです。私はそのコンセプトを受けて、プロジェクトリーダーとして具体策を考えました。

「21世紀の駅を作る」と言えば、誰もが「よし、やろう」となるんですが、具体的に何をやるかという段階になると、それぞれのセクションと利害が対立してしまう。「総論賛成・各論反対」の状態です。空間を1つのコンセプトで統一するために、照明計画や空調はこう、駅全体のカラーはこうしましょうと提案しても、「それはうちが決めること」となる。何かを変えようとするたびに、その責任と権限を持つ他部署との調整が必要になりました。

――それを、どう説得されたんですか?

説得できたかどうかは今も自信がありません。結局、全員を納得させることはできなかったと思います。前例がないからデータもない。自分の頭の中にあるイメージを一生懸命に言葉で説明したつもりですが、それは伝わらなかったと思います。

「エキュート大宮」が完成した時に、「なんだ、こういうのをやりたかったのか。だったら、早く言えよ」と言われたんです。私も部下も、ずっと説明していたつもりだったんですけれど(笑)。だから、百聞は一見にしかず、ですよ。前例のないことをするには、実際にやってみせるしかないんです。

私は「ランチ難民」!誰もが「不便」を感じながら、気持ちに蓋

――逆に言うと、鎌田さんはどうしてほかの人がイメージできないものをイメージできたのでしょうか。そこが不思議です。

おそらく、私自身が不便だったからでしょう。お昼を食べる時間がないほど忙しい時に、男性は10分くらいで駅そばを食べて打ち合わせに行けるけど、自分はできない。駅そばを食べたいんだけれども、立ち食いしているところを人に見られるのが恥ずかしかったんです。そうすると、菓子パンかじって行くしかない。社外での打ち合わせも多かったですから、かなりランチ難民でした。

じつは、その逆バージョンが家庭の中にもあったんです。2人暮らしなのに、夫がなぜかいつもケーキを3つも4つも買ってくる。「どうして?」って聞いたら、「後ろに女性が並んでいるのに、1つ、2つケーキを買うのはかっこ悪い」と。まだ、コンビニスイーツが流行る前でしたから、男性がデパ地下でケーキを買うのは恥ずかしかったんでしょう。「そうか」と、ピンと来ました。駅の利用者は6、7割が男性です。この人たちが気兼ねなく美味しいスイーツを買えるような場所を作ったら絶対に売れると確信しました。

――最後に1つ質問します。鎌田さんにとってのダイバーシティとは何ですか?

あまり意識しないくらい、当たり前のことだと思っています。人間はいつも完璧な状態でいられるわけではありません。福祉を学んでいた頃から、自分のどこかが弱くなっても、自立して生きられる環境を作りたいな、と思っていました。

(フリージャーナリスト 曲沼美恵)

〔2015年9月10日公開の日経Bizアカデミーの記事を再構成〕

鎌田由美子(かまだ・ゆみこ)
カルビー上級執行役員
 1989年4月、東日本旅客鉄道(株)入社。大手百貨店出向や駅ビル等勤務をへて、2001年より「立川駅・大宮駅プロジェクト」リーダーとしてエキナカを手掛ける。2005年「ecute」を運営するJR東日本ステーションリテイリング代表取締役社長。2008年より本社事業創造本部にて「地域活性化」「子育て支援」を担当。駅型保育の拡大や六次産業化としてのシードル工房青森「A-FACTORY」、越後湯沢駅改良、地産品ショップ「のもの」等を手掛ける。2013年JR東日本研究開発センターフロンティアサービス研究所副所長。2015年1月東日本旅客鉄道(株)退社。2015年2月より現職。株式会社ルミネ非常勤取締役、みちのく銀行社外取締役。

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