事務所から独立、いきなり無給 バンド解散で窮地に
バンダイナムコアーツ 副社長 井上俊次氏(12)
ネバーランド解散後に結成したヒューマンネイチャーのメンバー(右端が本人)
市場規模が膨らんだ「アニメソング(アニソン)」ビジネスの立役者の一人がバンダイナムコアーツの井上俊次副社長です。1970年代にロックバンド「レイジー」で一世を風靡しました。井上氏の「仕事人秘録」の第12回では、新バンドの解散に追い込まれた、苦しい時代を思い返します。
<<(11)阿久悠の歌詞「嫌です」と拒否 アニソンとの出合い
(13)レーベル名付け親は麻宮騎亜 アニメ音楽に本腰 >>
温泉地やホテルでディナーショーをやったり、ファンの集いを開いたりする機会が増え「思っていたのと違うな」という状況になっていました。「事務所から給料もらっているから自由に動けないんだ」という結論で、石田真吾さんと設立したI.T.I.ハウスを離れることにしました。
いきなりの無給です。ネバーランドのボーカルとひろゆき(田中氏)の3人で同居しました。活動費を確保するため映像特典付きのファンクラブをつくろうと、手分けして500本くらいのビデオテープにダビングしました。自宅に電話を引いて、テープに録音したファンクラブの案内音声を留守電で流していました。テープの再生スイッチが入る「カチッ」という音が鳴り続き寝られなかったです。
ライブ会場にも、自分たちで電話してブッキングします。6人乗れる車を購入し、楽器を積んで全国各地を回りました。ライブ中は楽屋に誰も居ないので、会計担当のドラマーは売上金を入れたバッグを腰にぶら下げたままでの演奏です。地方巡りが後半になるとバッグが重くてブルンブルン揺れていました。最後はファミリーレストランで山分け。そんな生活でした。
当時、(元レイジーの)景山(影山ヒロノブ)君が建築現場で作業員のアルバイトをしていて、経験も積んで現場のリーダーという立場になっていました。ネバーランドの収入だけでは食べていけないため、彼に頼み込んでメンバーを雇ってもらいました。
朝5時、景山君が自分の車で迎えに来てくれました。キーボードを弾くぼくの指を気遣って、重い物を持たない作業場に配置してくれました。1日の作業が終わるとリーダーの景山君から日当の1万円が入った給料袋を受け取りました。