アイドル路線で人気絶頂 一段落して芽生え始めた疑問バンダイナムコアーツ 副社長 井上俊次氏(8)

日比谷野外音楽堂でのライブには大勢のファンが詰めかけた(1978年)
日比谷野外音楽堂でのライブには大勢のファンが詰めかけた(1978年)

市場規模が膨らんだ「アニメソング(アニソン)」ビジネスの立役者の一人がバンダイナムコアーツの井上俊次副社長です。1970年代にロックバンド「レイジー」で一世を風靡しました。井上氏の「仕事人秘録」の第8回では、アイドルとして迎えた絶頂期と、楽曲面での「借り物」状態への疑問を語ります。

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レイジーはアイドル路線で人気者になった。

当時は歌番組の仕事が月曜日に集中していました。日本テレビ「紅白歌のベストテン」とフジテレビ「夜のヒットスタジオ」の生放送と、日本放送協会(NHK)「レッツゴーヤング」の収録も月曜日でした。メンバーはテレビ局からいつ呼ばれても駆けつけられるように、月曜日の予定を空けて待機していました。

合宿所にはお風呂が1つしかありません。メンバーが1人ずつ入りますから、朝7時に迎えのバスが来る場合、1人目は早朝の4時30分くらいに入っていました。専属のスタイリストをつけない時代で、服装は私服が基本でした。仕事終わりに「あしたは白いズボンで」と伝えられ、真夜中に慌ててコインランドリーで洗う。そんな生活です。

アイドル月刊誌では「明星」と「平凡」が競っていました。一方の撮影でグアムに行く。帰って1泊すると、もう一方の撮影でまたグアムなんて日程もありました。

ある時、グアムで人気歌手の沢田研二さんとたまたま一緒になり、夜に宿泊所へ招かれました。「芸能界で守らないといけないのは何ですか」とお聞きしたら「いいか、絶対に遅刻だけはするなよ」と仰る。「『遅れてすみません』からじゃ、相手に何も言えなくなるだろ」と。この教えは今でも守っています。

休日はありませんでしたが、ぼくらはまだマシです。当時トップアイドルだったピンク・レディーさんと一緒に雑誌の表紙を飾る機会がありました。撮影は深夜2時からです。スタジオで待っていると、ピンク・レディーのお二人が眠ったままスタッフに担がれて入ってきました。椅子に座らされ、カメラマンの篠山紀信さんが「はい撮るよ」と声をかけると、ニコっと笑ってパシャパシャパシャ。また担がれてスタジオを出て、次の仕事場へ。

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