プロンプター頼みの会見 にじむ「言わされてる」感
安倍晋三首相の記者会見では、手前のプロンプターが映り込むことが多くなってきた
演説原稿を映し出す、透明なディスプレー装置の「プロンプター」がずっと気になっている。文字を表示する画面が透明なだけではなく、しゃべっている本人の存在感まで薄れてしまう気がしてならない。その代表格が安倍晋三首相だろう。
とんでもなく「便利」な道具だ。まだ日本にあまり普及していなかった時期に、早々と導入したNHKで、試用させてもらって驚いた。「こんなの、ずるい(楽すぎる)」。想像を超えた使い勝手だった。
ディスプレーに原稿がデカデカと表示されるから、アナウンサーはただ声に出して読めば済む。「まるで視力検査じゃないか」。読み間違いを防ぐのはもちろん、ニュースの中身をしっかり頭に入れるために原稿を精読するという、アナウンサーの基本すら揺らぎかねないほどのお手軽感だった。
プロンプターとは、もともと演劇の舞台脇からささやき声で役者にせりふを教える係を意味していた。テレビの世界では同じような役目を果たすのが「カンニングペーパー」、略して「カンペ」だ。カメラがとらえている出演者に向けて、大きめの画用紙に手書きした指示を見せる。出演者は指示に従って、質問を発したり、話をまとめたりする。
プロンプターとカンペに共通しているのは、主体性の薄さだ。操り人形とまでは言えないだろうが、誰かの振り付けに従っているという、頼りなさが否めない。その「借り物感」は不思議と言葉の響きにもにじむ。どうも言葉が響いてこないのだ。
国会答弁では大臣の周りに官僚が陣取って、答え方に戸惑う窮地の大臣に、スッとメモを差し込む。渡りに船といった感じで、答弁を始める大臣だが、しゃべる中身は役人の言葉だから、大臣本人の当事者意識を感じにくい。上っ面の形式的物言いが質問者をかえって怒らせることも珍しくない。これも一種のカンペだろう。
安倍首相の記者会見には、歴代首相と比べて、「言わされ感」が強い。官僚の作文を、プロンプター経由で読み上げるような役割を果たしている「読み屋」のような印象を受けやすい。持論の改憲論では、割とはっきりした口調で、声にも張りがあるから、やはり借り物の言葉には説得力が弱いと感じる。
小泉純一郎氏が首相だったころと比べれば、違いは歴然だ。小泉氏の首相在任当時にはプロンプターは今ほどには多用されていなかったはずだ。借り物の言葉ではない、小泉氏の演説は「劇場型政治」の台本となった。「ワンフレーズ政治」の批判も浴びたが、今の安倍首相に舞台を躍らせる脚本家のイメージは薄い。
安倍首相の演説が響いてこない理由は、言葉に本人の「思い」が乗り移っていないからだろう。批判を浴びたマスクも世帯別給付金案も、筋書きを書いたのは官僚とみえる。やや平板な抑揚や字面をなぞるような発声も、「読まされている」という印象を与えがちだ。