プロンプター頼みの会見 にじむ「言わされてる」感

カンペ依存が進み、論戦がリアル感欠くおそれ

あたりさわりがなく、形式的な物言いは、「私は役割を務めているだけです」という雰囲気を醸し出す。たとえば、報道番組のキャスターが不祥事関連のニュースを伝えた後、「二度とあってはなりません」「憤りを禁じ得ません」といった、短い説教を言い添える、ありきたりのまとめ方も、「キャスター業らしいお約束」のにおいを帯びる。人工知能(AI)が普及して、真っ先に不要となる仕事の一つにアナウンサーが挙げられていると聞くが、こういう仕事ぶりでは確かにパターン化しやすそうだ。

「役割語」というのは、話者の人物像を印象づける特定の言葉遣いのことで、博士が「わしは~じゃ」と名乗ったり、お嬢様が「ごめん遊ばせ」と言ったりするようなケースがあてはまる。女性のせりふの語尾に「だわ」と添えるのも役割語的な使い方だ。ステレオタイプな物言いになりがちで、言葉遣いからキャラクターや立場を逆に固定するような効果も果たしやすい。

プロンプターやカンペに頼る発語の態度も、一種の役割語的な振る舞いといえるかもしれない。首相や大臣、経営者、キャスターなどがそれぞれの役割に応じて、「いかにも言いそうな言葉」を割り当てられている格好だ。言い回しや語尾にとどまらず、意見そのものも用意されている点では丸ごと「せりふ」とも呼べるだろう。

振り付け係が腕利きならまだしも、そうでない場合は、先に挙げたキャスターの「ミニ説教」のように陳腐な小芝居が生まれる。あらかじめ練り上げられた原稿を読み上げるような対応が多くなりやすい謝罪会見でも、一種の「様式美」とも映る既視感たっぷりのおわびシーンが繰り返される。あまりにも型通りの場合、オリジナルな気持ちは伝わりにくくなる。

プロンプター&カンペ主義の欠点は、本来望ましい議論の深みに至りにくくなってしまうところにある。「いかにも与党らしい答弁」対「いかにも野党らしい糾弾」は、型にはまっていて、構図や展開の意外感を欠く。

国会論戦が盛り上がりにくい理由は、与党と野党がどちらも一種の「役割語」に慣れすぎているからではないだろうか。バーチャル(与党っぽい)対バーチャル(野党っぽい)の対立なのだから、真剣勝負の熱気をはらみようもない。国民はあまりに見慣れた、国会内の永田町的「儀式」よりも、芸能人や著名経営者の率直な政治批判のほうに興味を覚えるようだ。

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テレワークがあぶり出す、役割に寄りかかった物言い
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