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「能登渚亭」の開業式にはピエール・カルダン氏(左からも2人目)を招いた。左端が本人

「能登渚亭」の開業式にはピエール・カルダン氏(左からも2人目)を招いた。左端が本人

石川県内にとどまらず、日本の旅館の代表格である加賀屋(同県七尾市)。3代目の社長で現取締役相談役の小田禎彦氏は、旅行業界紙の「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」で長く連続日本一に選出されたサービスの礎を築いてきた。小田氏の「仕事人秘録」第5回では、大型投資に踏み切った経緯を明かします。

◇  ◇  ◇

女性客を呼び込む新発想で設計

1981年、当時の旅館としては巨額の45億円を投じて新棟「能登渚亭」を稼働させ、加賀屋の名は全国に知れ渡るようになる。

1975年頃。めったに涙を見せない女将の真弓が泣いている。お客に「部屋が古い」「茶わんが欠けている」と指摘され、おわんの蓋を投げ付けられたという。設備がきれいな石川県の著名旅館と比べられ、悔し涙を流していた。

俺がたるんでいた、ここは腹をくくらなきゃいけない、と反省した。ホテルへの路線転換にこだわり、本館の投資は10年間していなかった。客室係の接客がよくても、接客を映えさせる舞台装置がおんぼろならば意味がない。

その頃、旅館業の先輩で43歳で亡くなった藤沢通夫さんの葬儀があり、奥様に30歳前後の男性を紹介された。「主人が面倒を見ていた建築デザイナーです。小田さんも可愛がってほしい」。名は山本勝昭さんという。尊敬してやまない藤沢さんが残してくれた人脈。この人に新棟のデザインを任せてみようと思った。

男性の憂さ晴らしの場だった旅館にも、女性が増え始めていた。山本さんにお願いしたのは「和服が似合い、お茶が好きな50~60代の女性が喜ぶ旅館」。設計図を見て驚いた。数寄屋造りの要素を入れつつ、12階建てで全館吹き抜け。斬新なデザインだった。

まだ専務だったので、病床に伏せっていた社長である父に了解を取りに行った。経理に強い父は、これまでにない建設費になりそうだと聞き、「まず6階分建てろ。もうかったら6階継ぎ足せばいい」という。妥協すれば旅館業に中途半端だったこれまでの自分と変わらない。真弓の涙にも応えたい。計画どおり、実行することを決意した。

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