ホテル研究会で実践積む 未来の妻・女将との出会い
加賀屋相談役 小田禎彦氏(3)
大学時代の夏休みはホテルで実習した(右から2人目が本人)
石川県内にとどまらず、日本の旅館の代表格である加賀屋(同県七尾市)。3代目の社長で現取締役相談役の小田禎彦氏は、旅行業界紙の「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」で長く連続日本一に選出されたサービスの礎を築いてきました。小田氏の「仕事人秘録」第3回では、ホテル研究に打ち込んだ大学時代を振り返ります。
<<(2)「お客のため」子供時代から 経営、父母の議論に学ぶ
(4)加賀屋に入社 「グランドホテルめざす」で父と対立 >>
米ホテル王の言葉に触れる
立教大では、入学した1958年当時としては珍しく観光事業を学ぶことができた。父は、立教大の卒業生である箱根の旅館の息子が巧みなPR戦略を展開していることを知り、入学を勧めた。
実際は週に1度、ホテル講座という授業があるだけ。米コーネル大でホテル学を専攻した大坪正教授が担当だった。コーヒーが好きな方で、「おい、コーヒー入れてくれよ」とかわいがってもらえるようになった。
教授に1900年代初頭の米ホテル王、エルズワース・スタットラーの言葉を教わった。「お客様の望むことをして差し上げなさい。望まぬことをしてはいけません」。今もサービスを考える原点になっている。
教えを実践する場も必要と、「ホテル研究会」というクラブに入った。「連れ込み宿の研究会か」と冷やかされていたが、64年の東京五輪直前でホテルへの注目度がぐっと高まる。30人だった部員は、一気に100人まで膨れ上がった。
部員は夏休みには全国のホテルへ研修に行く。2~3年生の時は70日間ずつ、六甲山ホテル(兵庫県)で働いた。部屋へ荷物を運ぶページボーイ、電話交換手、バーでの酒作りと何でもやった。関西の有力企業のお偉方がご夫妻でやってくる、華やかな場所だった。
缶詰め状態でハードに働いたが、1日230円の給料を手に、週に1度、神戸や大阪の街に行くのが楽しみだった。キャバレーでもてると思って学生証を見せると「タツキョウ大学に通ってるのね」。関西での知名度の低さに苦笑いするしかなかったが、いろいろな社会勉強ができた期間だった。