「お客のため」子供時代から 経営、父母の議論に学ぶ加賀屋相談役 小田禎彦氏(2)

幼少の頃は旅館の喧噪の中で育った(左から4人目が本人)
幼少の頃は旅館の喧噪の中で育った(左から4人目が本人)

石川県内にとどまらず、日本の旅館の代表格である加賀屋(同県七尾市)。3代目の社長で現取締役相談役の小田禎彦氏は、旅行業界紙の「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」で長く連続日本一に選出されたサービスの礎を築いてきました。小田氏の「仕事人秘録」第2回では、「おもてなし」マインドを自然に養った幼き日々を思い返します。

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幼心に芽生えた「おもてなし」

1940年、加賀屋の2代目社長、父・與之正と母・孝の間に生まれた。旅館の喧噪(けんそう)の中で育ち、知らず知らずのうちにお客のために何ができるかと考えるようになった。

幼い頃の記憶にあるのは、よその家よりも大きくて広い廊下があり、走り回って怒られたことだ。夜になると客が「炭坑節」を歌ってどんちゃん騒ぎする。酒を飲んだお客同士のけんかもしょっちゅうで、漁師のグループの旅行ではけがをしていた人もいた。50年に新設した「呼帆荘」があたり、いつも混み合っていた。

接客に気を遣う親を見ていたせいか、子供の頃からお客を大切にという気持ちがあった。小学3年くらいのこと。夜8時ごろに近所を歩いていたら、加賀屋の浴衣を着たお客を見つけた。げたの鼻緒が切れ、片方の足ははだしで歩いている。

駆け寄って「僕のげたを使って」と交換した。「どこの子や」と言われ、「加賀屋です」と答えると、「すごい子やなあ」と褒められた。自然に出た行動だった。お客を喜ばせたいというサービス精神が骨の髄までしみていたのかもしれない。

中学・高校は親元を離れ、加賀屋がある和倉温泉から電車で3時間以上かかる金沢市で生活した。

当時は「宿屋の息子は甘やかされて育つからダメな人が多い」と言われていた。厳しく育てようとした父は、金沢市にある金沢大学付属中学校に入学させ、地元銀行の幹部宅に下宿させた。酔客の扱いに苦労する親の姿を見せたくない、という思いもあっただろう。

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母から譲り受けた「先行投資」の感覚