初代ロードスター、手弁当で始まった開発元マツダ「ロードスター」開発主査 貴島孝雄氏(6)

英国人技術者と酒を飲み、コミュニケーションを取った(右端が貴島氏)
英国人技術者と酒を飲み、コミュニケーションを取った(右端が貴島氏)

自動車メーカーのマツダに籍を置き、二人乗り小型オープンカー「ロードスター」の開発主査を務めた貴島孝雄(きじま・たかお)氏は、スポーツカーの世界では伝説的なエンジニアです。マツダを定年退職後、現在は山陽小野田市立山口東京理科大学の教授を務めています。貴島氏の「仕事人秘録」第6回では、初代ロードスター誕生のいきさつを語ります。

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発売するか、お蔵入りになるか五分五分

二人乗り小型オープンスポーツカー「ロードスター」の開発案が持ち上がったのは1983年ごろ。貴島氏はスポーツカー「RX―7」でサスペンション開発に携わっていた。

当時、米国の西海岸では英MGや伊アルファロメオの小型オープンカーが売れていた。ただ、安全規制強化で、新車を生産しているメーカーはほとんどなかった。カリフォルニア州にあるマツダの米国法人の社員が、現代技術でデザインが優れた小型オープンカーを作れば必ずヒットすると何度も提案してきた。

そのころ商品企画担当の技術者だった平井敏彦さんが出向先の販売店から本社に戻ってきた。マツダは業績低迷で一部の社員を全国の販売店に2年ほど出向させていたのだ。

平井さんは販売店が他社と値引き競争していることに疑問を感じていた。独自のクルマをつくれば価格競争を避けられるはずとの思いを強くしていた。オープンカーの話を聞いた平井さんは「これだ」と思ったのだろう。自ら開発主査に手を挙げた。

発売するか、お蔵入りになるか五分五分の案件を社内で「オフライン55」と呼んでいた。まずはビジネスとして成立することを証明する必要があった。

既存のスポーツカーを改造してオープンカーの試作車をつくった。米国のマーケティング会社に委託し、カリフォルニア州の大型ショッピングセンターの駐車場に置いてみたところ、黒山の人だかりができた。みんな「どこのクルマか」「価格はいくらか」と聞いてきた。

これはいけると思い、国内の販売店に聞いたら「売れても月150台がいいところだ」と言う。しかし米国の販売店は月3000台は売れると言ってきた。

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