ロータリーをスポーツカーに積め RX-7開発に参加元マツダ「ロードスター」開発主査 貴島孝雄氏(2)

高校時代から車の模型を作っていたため、入社後に見た図面はすべて理解できた
高校時代から車の模型を作っていたため、入社後に見た図面はすべて理解できた

自動車メーカーのマツダに籍を置き、二人乗り小型オープンカー「ロードスター」の開発主査を務めた貴島孝雄(きじま・たかお)氏は、スポーツカーの世界では伝説的なエンジニアです。マツダを定年退職後、現在は山陽小野田市立山口東京理科大学の教授を務める貴島氏の「仕事人秘録」。第2回は、ロータリーエンジンの存続をかけて、スポーツカー開発が始まった時期を振り返ります。

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最初は気が進まなかったマツダ入社

徳島県の時計商に生まれた貴島氏は、物心ついたときから機械いじりが好きだった。家が貧しかったため、大学進学はあきらめ、自動車メーカーへの就職を希望した。

徳島東工業高校の進路指導の先生から東洋工業(現マツダ)の就職試験を受けるように言われた。私が就職試験を受けた1966年当時、高卒の初任給は1万8000~2万円が一般的だったが、東洋工業は2万4000円だった。株価も高く、給与もいいという。徳島から連絡船で岡山に渡り、丸一日かかって広島の東洋工業本社にたどり着いた。

自動車メーカーを志望していたが、本命はトヨタ自動車やコマツだった。四国の若者にとって、身近な都会といえば大阪や神戸など関西だ。広島に都会のイメージはなく、気が進まなかった。筆記試験を受けると、翌日に本社前に番号を張り出すから来いという。

筆記試験の合格者には面接試験が行われるのだが、私は受けるつもりはなかった。荷物をまとめてそのまま四国に帰るつもりで本社前に行くと合格していた。先生に「帰りたい」と電話すると、高校の後輩に迷惑がかかるからと面接試験を受けるように言われ、しぶしぶ受けた。

徳島の実家で内定通知の電報を受け取った時はがっくりきたが、今になって思えば先生に感謝しなければいけない。

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