Men's Fashion

「ユニクロの原点はVAN」「定番こそ革新が必要」

石津祥介のおしゃれ放談

柳井正氏×石津祥介氏 定番を語ろう

2019.11.28

アイビーファッションを日本に紹介したヴァンヂャケット(VAN)の創業者、石津謙介さんは1990年代後半に開店したてのユニクロ原宿店を見学し、こうつぶやいたという。「これこそ僕がやりたかったことだ」。ボタンダウン、チノパンと定番を中心に据える商品構成がかつてのVANをほうふつとさせ、だれもが買える価格だったからだと、謙介さんの長男で服飾評論家の石津祥介さんは述懐する。実はユニクロを展開するファーストリテイリング会長兼社長、柳井正さんの実家はVANSHOPを経営していたという縁がある。そこで柳井さんと祥介さんがファーストリテイリング有明本部(東京・江東)で初めて対面。なぜ若者は定番志向になったのか、いまの消費者をとらえる定番とは何か、についてじっくりと語り合った。




実家がVANSHOP経営、カジュアルの全貌を学んだ

――柳井さんの実家(山口県宇部市)の小郡商事がVAN専門店、VANSHOPを経営されていたと聞きました。

柳井「実家の本業は紳士服店でスーツを売っていて、姉妹店がVANSHOPでした。1960年代、カジュアル衣料の店といえばVANSHOPしかありませんでした。ですから僕は高校で最初にボタンダウンの白シャツとコンバースタイプのバスケットシューズを履いて登校した生徒。でも、だれも何も言わない。そんなものはどこにも売っていなかったので気付かないんです」

石津「学生は詰め襟、サラリーマンは学校をでるときに親に一着だけ背広を作ってもらう。昔はそれだけだったからね」

――そこにVANが米東海岸の名門大学、アイビーリーグのファッションスタイルを持ち込んだのですね。衣料品店の経営ではどのような影響を受けましたか。

「みなが服しか売らない時代に服と文化を結びつけたVANは偉大でした」

柳井「僕はVANSHOPをやって商品分類を覚えたのです。VANが偉大だったのは日本で初めて商品を体系的に品番で管理したこと。スーツはA番、ジャケットはB番といった具合に。ほかのブランドやデザイナーにはそういった体系がなかった。ああ、カジュアルはこういう分類をするのだという全貌がよく分かりました」

――パンツはパンツ専業、セーターはセーター屋さんという時代で、トータルでカジュアル衣料を展開する店はありませんでした。

柳井「しかも、この場面ではこういう服を着るという『TPO』を知り、ブレザーとはどういうものか、ということも学んだ。ユニクロの基本はVANなんです」

フリースやヒートテックで日本人の風俗を変えた

――そんなユニクロが東京進出を果たしてフリースの大ヒットで話題になりました。石津謙介さんはどう見ていたのですか。

石津「謙介は『これこそ夢見ていた仕事なんだ』と言っていました。謙介はVANを日本中の男に着せたかった。日本中の男をかっこよくしたかった。生活ファッション着を目指したのです。ところがタイミングが早すぎてファッションにとどまってしまった。値段も高くて、スーツが初任給と同程度でしたから、顧客が限定されました」

「このユニクロのウール風パンツは洗濯機で洗いっぱなしでしわにならない。すごいよね」

柳井「僕はね、石津謙介さんは本当は風俗を作りたかったんだと思っています。VANはライフスタイルを提案した最初のブランドで、VANのほかにリーバイスに匹敵するジーンズのラングラーやアウトドアのシーンなどを手掛け、同時に雑誌と組んでアウトドアの道具などを紹介した。皆が服だけを売っているときに、石津謙介さんは内外の服を文化と一体化させて発信していたのです。ユニクロはフリースやヒートテックで日本人の風俗を変えました。石津謙介さんはたぶん、うちのような『ライフウエア』をやりたかったんじゃないかな」

――ライフウエアという日常着の中核は定番と呼ばれる普遍的なアイテムです。近年、消費者は流行を追わなくなったともいわれていますが、一方で定番の復権を感じていますか。

柳井「ファッション感覚だけの服だとファッションショーで見せるにはいいかもしれませんが、日常の服としては着られない。ベーシックだとか、トラディショナルな服が基本だと思っています。でも、トラディショナルをやりすぎると古くなるんですよ。トラッドを掲げても時代の変化に対応できないところは全部だめになりました。なぜか。革新が止まったからです。トラディショナルな定番こそ革新が必要です。僕はトラディショナルな服に、ファッション、そのシーズンのトレンドが少しだけ入っているというのが一番いい服なんじゃないか、と思っています」

石津「車のクラウンはいまと当初では全然違うでしょ。服も当然そうで、進化が絶対必要なんです。ただVAN創業時は消費者にとって目新しいものばかりだったから、米国でこれは、という服を探してきては徹底的にコピーすればよかった。謙介はいつも『デザイナーはいらないよ』と言っていました。作るよりもむしろ、日本人には余計と思われるデザインや装飾をはずすところが大切で『キミたちはデザイナーじゃない、削り屋なんだ』と企画担当者に言っていました。そうやって、今までになかった定番品を日本に定着させたんです」