マーケティングプランナーから番組制作会社、そしてテレビ東京の番組制作者に。ヒット番組『空から日本を見てみよう』『和風総本家』を生み出した永井宏明氏は博報堂でものづくりの面白さに目覚め、「マーケティングの経験を生かしてテレビ番組を作れないか」と考えるようになりました。

 人の心を動かすアイデアを生み出し、効果的に伝えるための技術とは? 聞き手はNHK『ブレイブ 勇敢なる者』シリーズなどを手掛けるNHKエデュケーショナルの佐々木健一氏。今回のゲストは『空から日本を見てみよう』『和風総本家』などを手掛けた永井宏明氏(テレビ番組制作会社「ユニット」代表)。その異色の経歴や仕事論に迫る(全4回の第1回)。

『空から日本を見てみよう』 (C)テレビ東京(空から日本を見てみようDVDコレクション 発行/デアゴスティーニ・ジャパン)
『空から日本を見てみよう』 (C)テレビ東京(空から日本を見てみようDVDコレクション 発行/デアゴスティーニ・ジャパン)

48歳で独立! 異色の経歴を持つヒットメーカー

佐々木 健一(以下、佐々木) まず永井さんにお聞きしたいのが“異色の経歴”について。広告代理店の博報堂、番組制作会社のハウフルス、テレビ東京を経て、現在は自身で立ち上げた番組制作会社「ユニット」の代表を務めている。これだけ経験している人はほとんどいないですよ。

永井 宏明(以下、永井) 確かに、経験豊富なほうかもしれないですね。

佐々木 健一氏(左)
1977年生まれ。早稲田大学卒業後、NHKエデュケーショナル入社。『哲子の部屋』『ブレイブ 勇敢なる者』シリーズなど特集番組を手がけ、ギャラクシー賞や放送文化基金賞、ATP賞など受賞多数。著書に『辞書になった男』(文藝春秋/日本エッセイスト・クラブ賞)、『神は背番号に宿る』(新潮社/ミズノ・スポーツライター賞優秀賞)、『雪ぐ人』(NHK出版)がある。新著は『「面白い」のつくりかた』(新潮新書)。

永井 宏明氏(右)
1963年生まれ。慶応義塾大学卒業後、博報堂へ入社。その後、テレビ番組制作会社ハウフルス、テレビ東京を経て現在、テレビ番組制作会社「ユニット」を設立。これまでに『空から日本を見てみよう』(テレビ東京/ギャラクシー賞奨励賞)や『和風総本家』(テレビ大阪/テレビ東京系列)『TVチャンピオン』『完成!ドリームハウス』『メデューサの瞳』(テレビ東京)などの番組を企画・プロデュースする。

佐々木 最初に永井さんと知り合ったのは、テレビ東京を辞められて今の会社を立ち上げられた2012年ごろですね?

永井 もう7年ぐらい前ですね。

佐々木 テレ東を辞められたのはおいくつで?

永井 48歳です。

佐々木 48歳! テレ東時代には『空から日本を見てみよう』や『和風総本家』といったヒット番組を企画・プロデュースされて、管理職までいかれたんですよね?

永井 ええ、部長CP(チーフプロデューサー)を。

佐々木 はたから見ると「役職もあって、いい給料ももらっているのに……」と思ってしまうんですが、奥さんは心配されなかったですか?

永井 ウチの妻は収入がどうなるとか、生活がどうなるとか、あまり気にしないタチなんです。

佐々木 ご自身もあまり心配されなかった?

永井 安定とか精神的に楽なほうより、自分が楽しいと思えるほうを選択した結果なんですよね。もし、それで収入がついてこなかったら、自分はそこまでだったと諦めるしかない。今までは自分の実力以上にお金をもらっていたんだと思うしかない。

佐々木 めちゃくちゃ潔い考え方ですね。

100社にエントリーする“就活ジャンキー”

NHKエデュケーショナルの佐々木健一氏
NHKエデュケーショナルの佐々木健一氏

佐々木 大学を卒業して最初に就職したのが博報堂で、マーケティングプランナーをされていたんですよね。なぜ、広告会社へ?

永井 お恥ずかしい話なんですが、大学時代の就職活動中、あまりに就活自体が楽しくなっちゃって“就活ジャンキー”みたいになっていたんですよ。

佐々木 就活が面白い!?

永井 ええ、それまでは「学校」という閉ざされた社会にいたのに、就活中はOB訪問とかで堂々といろんな会社に入れるじゃないですか。「世の中にはいろんな人がいて、いろんな会社がある」というのを知ると、だんだん面白くなっちゃった。実際に100社ぐらい受けたんです。

テレビ番組制作会社「ユニット」代表の永井宏明氏
テレビ番組制作会社「ユニット」代表の永井宏明氏

佐々木 へぇ~!

永井 なぜ、そんなにハマったかというと、4大商社とか、民放とNHKのカラーの違いってよく言われますけど、「入社したときは同じ学生だったんだから。本当にそんなに違うのか?」と思って、世の中の先入観や偏見を自分で確かめたくて商社から百貨店までいろいろ見に行ったんですね。で、そのうち「就活って“自分探し”になっているな」と感じるようになった。というのも、落とされるべき会社からはちゃんと落とされたので(笑)。

佐々木 就活を通じて、自分の志向がだんだん見えてきたんですね。

永井 自分が何をしたいかというと、マーケティングの仕事か、テレビ番組の制作でした。でも、放送局のほうは最終面接で落ちちゃって、博報堂から内定をもらえることになったので、マーケティングの仕事をしようと決めたんです。

商品開発で「ものづくりの面白さ」に目覚める

佐々木 博報堂には何年、在籍されたんですか?

永井 7年いました。営業部長から聞かされた話が後々辞めるきっかけになって……。彼がある日、「永井、広告で物が売れるのか?」と聞いてきた。「売れると思っているからやっているんじゃないですか」と言ったら、「いや、そんなことないんだよ」と言うんです。

佐々木 ほう。

永井 「新商品の9割は、わずか1年で消える。2年目で値札が付いてコンビニの棚に残るのは1割もない。だから、新商品キャンペーンのコンペで他社にプレゼンで勝つと社内的にはカッコイイけど、競合プレゼン自体が効率の悪い取り組みなんだ」と。

佐々木 なるほど。

永井 で、部長から「商品が売れ続けている限りは必ずいくらかの広告費がつくんだから、お前は売れ続ける商品を作れ。そのほうがビジネス的にも効率がいい」と言われたんです。「面白いことを言うなぁ」と思いました。

博報堂時代の永井氏
博報堂時代の永井氏

永井 それで、ある飲料メーカーのプロダクトマネジャーと二人三脚で、2年半ぐらいコンビニ飲料の開発をやった。自分のデスクの前にいろんなコーヒーをズラっと並べて分析して、帰宅するときもコンビニでコーヒーを買う人を観察して。パッケージやデザインを工夫して時間をかけて試作品を作って、それを逐一検証して、今も残る商品ができた。その仕事がとにかく面白くて。でも、「あれ? ちょっと待てよ。“物を作る”って楽しいな」と思うようになっちゃった(笑)。

佐々木 ものづくりへの欲求が湧いてきた?

永井 そうなんです。広告会社って、もちろんCMを作る人もいますが、基本的にはクライアントビジネスなので。そこから、「じゃあ、次は何を作ろう?」と考えるようになって「もともとは俺、テレビ番組を作りたいと思っていたんだ」と思い出して、「マーケティングの経験を生かしてテレビ番組を作れないか?」と考えるようになった。

佐々木 へ~、それで広告から番組制作のほうへ。

永井 テレビ番組って因数分解の因数が多いというか、単純な「x」「y」「z」とかじゃなくて、企画や出演者とか、いろんな要素の偶然性が重ならないと当たらない。

佐々木 そう、番組作りって要素が多くて複雑なんですよね。

永井 だから、ヒット番組を作れるようになるまで相当、時間がかかるし、自分の興味や探求心も長持ちすると思ったんです。

ワクワク感に満ちた異常なテレビ屋の世界

永井 博報堂で働いていたころ、毎週見ている番組が4つあって、『ボキャブラ天国』『出没!アド街ック天国』『THE夜もヒッパレ』、それと『タモリ倶楽部』。そしたら妻が転職雑誌の切り抜きを持ってきて、「あなたが見ている番組は全部、ハウフルスっていう会社が作っているみたいよ」と教えてくれたんです。

佐々木 転職を奥さんに突き動かされるとは、すごい展開ですね(笑)。

永井 妻に「お前、あおるね~」と(笑)。自分が好きな番組をすべて同じ制作会社が作っているとは思っていなかったので、「それなら何か面白いことがこの会社にあるはずだ」と思って、それが見たくて辞めちゃったんです。

佐々木 博報堂からハウフルスへ転職されたときは?

永井 32歳かな。

佐々木 広告マンとして脂がのっているころじゃないですか。実際、ハウフルスさんでは「面白いこと」を見られましたか?

永井 出勤初日か、2日目に早速、『ボキャブラ天国』を編集している部屋をのぞきに行ったんです。そしたら、ディレクターがたばこをふかしながら1フレームずつカットを伸ばしたり縮めたりして「違うなぁ~」とかつぶやいているんです。「ああ、期待していた変な人がいるぞ~」と思って見ていたんですが、何時間たっても映像が変わらない。一体、何をやっているのか、さっぱり分からなかった(笑)。

佐々木 ハハハ(笑)。

永井 ずっと1カットの数フレームを伸ばしたり、縮めたりして悩んでいるんです。一方で、菅原正豊さんというハウフルスをずっとやってこられた社長さんの部屋の前にはズラッと行列ができているんです。皆、編集が終わったVHSテープを持って、社長室の前で順番待ちしているんですよ。

佐々木 マジですか、すごい……。

永井 社長室から笑い声が聞こえたりして、プレビューが終わると「はい、次」と言うわけです。菅原さんが「お前はセンスがないなぁ。2フレ遅いよ~」とか真顔で言っているんです(笑)。

佐々木 すべて“間”が大事ですからね。

永井 そう、その“間”というのは、菅原さんの動物的な感覚による物差しなんですけど、そこが合うか合わないかをずっとやっていたんですね。今まで見てない世界を見られて、すごく楽しかったです。テレビ番組を作るワクワク感ってこういう空気なんだと感じて、菅原さんに付いて勉強させてもらおうと素直に思った。それで、「遅れて入ったんだから、他人の3倍頑張れ」と言われて、会社の近くに家を借りて、ハウフルスさんの中で育ててもらったような感じです。

佐々木 ハウフルスさんらしさは、今の永井さんの番組にも受け継がれている感じがします。どのくらい在籍されたんですか?

永井 5年いました。

「自分が面白いほうへ行く」シンプルな選択で独立へ

佐々木 それから、テレビ東京に移られた理由は?

永井 中途採用の募集が出ていたので。

佐々木 おいくつのとき?

永井 37歳です。ハウフルスで勉強させてもらって楽しくやっていたんですけど、基本的に菅原さんの番組を作る会社だったので「自分の番組を作りたい」と思ったんです。そんなときにテレ東の募集があって、「ここなら自分の企画で番組を作るチャンスが増えるだろう」と思って移りました。

佐々木 といっても、簡単に採用されるものではないでしょう。

永井 たぶん『アド街ック天国』のディレクターをしていたので、最低限の信頼感はあったのと、面接で「お金がなくても楽しんで番組を作るテレビ東京が好き」というのを感じてもらえたからかと。

テレビ東京時代の永井氏
テレビ東京時代の永井氏

佐々木 で、37歳で移って、テレ東には何年、在籍されたんですか?

永井 11年ですね。ずっとバラエティーでした。

佐々木 どうして辞められたんですか?

永井 部長という管理職としての時間の使い方と、番組を作っている現場の時間の使い方って違うじゃないですか。「番組を作っているほうが楽しいし、そのほうが自分は幸せだ」と思ったのと、あとは自分の会社をゼロから作るのって楽しそうだなと思って。

佐々木 ここでも「自分が面白いと思うほうへ行く」という選択なんですね。

永井 それだけですね。うまくいくか、いかないかは分からないけど、そっちのほうが面白いと思ったんです。

佐々木 いや~、素晴らしい。

永井 我慢弱いんですよ。あと、僕は人のせいにするのが嫌いなんです。例えば、会社って上層部と自分の意見が合わなくてうまくいかなかったときに自分で責任の取りようがないことがある。でも、人のせいにするのも精神的に苦痛で……。自分の会社だと、もし下の子が何か粗相をしたり、失敗したりしても、その子を採用したのは自分なので「俺のせいだね。しょうがない」と諦めがつくので。

※第2回(10月29日公開予定)に続く(全4回)

(構成/佐々木 健一、人物写真/中村宏)

「日経トレンディネット」で連載していたコラム「TVクリエイターのミカタ!」をもとに再構成した佐々木健一氏の新刊『「面白い」のつくりかた』(新潮新書)


「空から日本を見てみようDVDコレクション」(発行/デアゴスティーニ・ジャパン)


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