韓国の「伝道師」が語る50年 いつも文化の絆あった

韓国では反日集会が続く(ソウルの光化門広場)
韓国では反日集会が続く(ソウルの光化門広場)

「日本のテレビ、新聞、ネットで、ここまで大量に韓国という字を目にした記憶はないなあ」。日韓を半世紀にわたり行き来して、音楽、料理、風俗、習慣など、「日韓の文化」について書き続ける友人で、元「韓国日報」記者の佐野良一さんがため息交じりに言った。

彼は美術大学を卒業したが、就職はせず、気ままに好きな絵を描いていた。将来を心配した父親が「知り合いの書店が社員募集してるようだ。お前の好きな絵画も扱っているらしいぞ」と水を向けた。学費を払い続けてくれた父への最初で最後の「親孝行」と考え、面接を受けるために向かった先は、東京・京橋にあった、「三中堂」という韓国書籍の輸入販売をする店だった。

佐野「韓国についての知識もない、韓国語を読めない、しゃべれない、そんな僕でいいんですか?」

店主「大丈夫、うちには日本人社員もいますし、お客様の多くが日本語を話せます」

店主の穏やかで親切そうな人柄に触れ、佐野さんは入社を決めた。それが彼と韓国とのお付き合いの始まりだった。店主は「大丈夫です」と言ってくれたものの、店じゅうがハングルだらけの環境は、韓国語のできない彼には相当なプレッシャーだった。

接客用の勉強から、韓国文化の理解者に

佐野「電話が鳴ると、新入りの自分が真っ先に受話器を取らなきゃいけない。最低限の韓国語は見よう見まねで覚えたとはいえ、『電話の会話』はハードルが高かった。ところが、ありがたいことに電話の問い合わせは大抵、日本語を話す人たちで助かった」

当時の日本ではなかなか手に入らない、韓国の最新ヒットレコードやカセットテープをそろえていたから、全国各地の「韓国歌謡ファン」が東京までやってきた。来店したお客さんからみれば、売り場にいる佐野さんは「韓国歌謡の専門家」だとみえるのか、来店客は多種多様な質問をぶつけてきた。「知りません」とも言えず、店にあるレコードやカセットを事前に聞き込み、楽譜集を読み込むという、涙ぐましい努力で徹底的に調べて接客に臨んだらしい。気がつけば、相当程度、韓国語を理解できるようになっていた。

佐野「問い合わせで一番多かったのは、韓国の放送局が深夜、日本人に向けた韓国語講座放送についてだった。NHKのハングル講座が始まるのはそのずっと先のこと。学べる学校も極めて少なかった時代に、生の韓国語を学べるチャンスはこのラジオ講座だけといっても過言ではなかった。そのテキストを売っていた場所が、日本では三中堂だった」