2018年6月にバンダイナムコホールディングスの会長を退任した石川祝男氏は、文化の異なるバンダイとナムコの経営統合に誰よりも前向きで、両社の文化融合に尽力しました。石川氏が社員に伝え続けた「元気よく暴走しなさい」というメッセージでした。その石川氏の「仕事人秘録」。第5回では営業担当に配属された入社初年度を思い返します。
1978年4月、ナムコに入社。最初に配属されたのは、希望とは違う営業部だった。
44人いる同期のうち、文系出身は私を含めて2人だけです。できれば開発に関わりたかったので、営業部は希望通りではありませんでした。
営業先は東京都や茨城県、福島県などの東北地域と広範囲です。各地のゲームセンターを巡り、ドライブゲーム「F1マッハ」や「サブマリン」を売りました。20カ所しか受け持ちのゲームセンターがなく、新規の開拓を命じられました。
ある日、福島県の会津地区の店を訪れました。雑談をしていると出身地を聞かれ「山口です」と答えると「帰れ」といきなり怒鳴られました。長州、薩摩藩などの新政府軍に敗れた会津藩らの100年前の遺恨だったようです。
若かった私は、なぜ怒っているのか理解できませんでした。それでも何度も通ううちに、最後は随分とよくしてもらいました。
集金現場では門前払いを食らった。
昔はいい加減な先輩もいました。注文がないゲーム機20台を勝手な判断でゲームセンターに送り、「よし、おまえ、集金してこい」と。当然ですが、訪問先では事務所にも入れてもらえません。
営業先の玄関で待っていると、倉庫に連れて行かれ、全く稼働していないゲーム機を見せられました。当時はヒット商品が1つあれば、稼働しない商品があっても、もうかりました。それはお客さんもわかっています。「しょうがねえな」と最終的には払ってくれました。