ひらめきブックレビュー

100年かけて辞書を編む 奥深い英国のラテン語研究 『100年かけてやる仕事』

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「私は100年後の人々のために仕事に取り組んでいる」。こんなふうに言える人はそう多くないだろう。

2013年、英国で約100年をかけた辞書が完成した。1913年から編さんがスタートしたその辞書は、『英国古文献における中世ラテン語辞書』。英国学士院が主導し、多くの市井のボランティアたちに支えられた準国家プロジェクトだった。

本書『100年かけてやる仕事』は、この辞書作りを追ったノンフィクション。関係者へのインタビューを通じて辞書編さんの意義、そして現代における働く意味までを問いかける一冊だ。著者の小倉孝保氏は毎日新聞社編集編成局次長。

■需要は見込めず、もうけにならない

現在、口語としてのラテン語は使われていない。つまり、さほどの需要は見込めないうえ、もうけにはならない。それなのになぜ、この辞書はつくられたのか。

中世、英国ではあらゆる文書がラテン語で書かれてきた。文語として英語が整っていなかったことや、哲学、神学、科学など知的水準を他国に示すにはラテン語で記す必要があったからだ。英国憲法や米独立宣言の源流であるマグナ・カルタも、中世ラテン語で書かれている。つまり英国の歴史を読み解き後世に引き継ぐには、正確なラテン語の辞書が欠かせないのだ。

ラテン語の記録はこれまでの英国人の思考の結果である。また中世の人々の生き方や思想を知りその延長にある現代の英国人自身を知ることでもある。そうした意義のもと、ラテン語の専門家に加え、"ワードハンター"と呼ばれるボランティアたちが古文献から数多くの中世ラテン語を収集した。

ラテン語は、ローマ帝国の拡大と共に広まり、ローマ分裂後も欧州各地の民族言語に影響を与えた言語だ。また、中世は約1千年と時間的広がりも大きい。そのため、時代・地域で文法、語彙、つづりが多様化した。例えばニュートンのラテン語論文で「反作用」はreactioだが、正式なラテン語ではredactioと書く。こうした時代ごとに異なる言葉を集め、使い方を確認し、意味を確定するという途方もない作業を、100年間、続けていったのである。

■自分の生きている間は完成しない

関係者の中には、生きている間は完成しないと理解しつつ取り組んだ人もいるという。経済合理性や効率主義から離れて脈々と続いてきた辞書作りへの情熱に触れた著者は、こんなことを語っている。

100年という時間は"苗代"だった。英国人が社会全体で中世の文化、習慣、思想、科学について思索を深め、中世約1千年間の言葉を磨くために、必要な時間だったのだ。長い時間を耐えて編まれた辞書は、これから先も長い時間を生き延び、古びずに価値を生み出す、と。

本書を読んだあとはどうしても自分の働き方と比べてしまうだろう。仕事であれば、スピードを重視し、他者と競争することも必要だ。だが時に周囲と協力しながら100年後の人々へ貢献する、という視点を持ってもいいのではないか。日々の働き方も、変わってくるだろう。

今回の評者=はらすぐる
 情報工場エディター。地方大学の経営企画部門で事務職として働く傍ら、8万人超のビジネスパーソンをユーザーに持つ書籍ダイジェストサービス「SERENDIP」エディターとして活動。香川県出身。

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