楽天と楽天野球団(仙台市)は、プロ野球チーム「東北楽天ゴールデンイーグルス」の本拠地「楽天生命パーク宮城」で2019年4月2日、完全キャッシュレスを開始した。球場内の購入はすべて現金不可。高齢者ファンも多く、混乱が予想されたが大きなトラブルはなし。その背景に楽天の周到な下準備があった。
球春到来というには、あまりにも寒い。天気予報の最低気温は0度。晴れ間もあったが、時折灰色の雲が空を覆い、雪がパラついていた。それでも東北の熱心なファンは、球団が来場者プレゼントとして配布したクリムゾンレッドのフリースを羽織り、スタンドを埋めつくす。16時の試合開始後には、球場正面に「満員御礼」の看板も出た。
球場の敷地内で目立つのは「×現金」と大きく書かれた看板だ。「お買い物の際、現金はご利用できません」と、拡声機からアナウンスが流れている。看板には、球場内で使える決済手段は、スマートフォンアプリ決済の「楽天ペイ」、電子マネー「楽天Edy」のほか、JCBやVISAなどのクレジットカードや、各種デビットカードに限られることが記されている。
小銭対応のEdyチャージャーも開発
楽天生命パーク宮城では、06年3月に楽天Edyを導入。18年7月にはビールなどの売り子販売で楽天ペイによる決済に対応してきた。今シーズンは、現金不可という強気の施策に踏み込んだ。「国も推進しているキャッシュレス社会に率先して取り組み、世の中を活気づける」(楽天ペイメント社長の中村晃一氏)ことを狙うためだ。
19年1月の発表からこの日まで、楽天は来場したファンの混乱を避けるための準備に注力してきた。メールやWebページはもちろん、チラシを配布し、仙台市内の公共交通機関の広告などでも現金が使えなくなることを告知した。
そのうえで、球場のEdyの現金チャージャーは18年の24台から100台に拡充。通常のチャージャーはお札しか受け付けないが「お小遣いを握りしめた子供でも扱える」(中村社長)ように、小銭用のチャージ機も新たに開発した。各種の質問に応対するキャッシュレスデスクを球場内に5カ所設置している。球場内の係員500人が携帯型のEdyチェッカーを持ち、Edy残高の問い合わせに答えられるようにもした。また、当日の来場者全員には、特典としてEdyカードをプレゼントした。
楽天は、既に19年3月2日に神戸で開催された「ヴィッセル神戸」の開幕戦でも完全キャッシュレス化を実施している。神戸では「試合までに相当の告知はしたものの、来場者の約2割は知らなかった」(楽天)という反省があった。そこで、楽天生命パーク宮城では、現金が使えないことを告げる看板を掲げたサンドイッチマン風の係員を当初の20人から60人体制に拡充した。
一部の高齢ファン「やっぱり現金がいい」
来場したファンはどう感じているのか。多く聞こえてきたのは、キャッシュレス化を肯定する意見だ。「楽天から案内のメールが来ていて、楽天ペイを事前に準備してきたので、問題なかった」(40代の女性会社員)、「Edyカードをもらったので初めて使ってみた。交通系カードと同じようにスムーズに使えた」(40代の主婦)とおおむね好評だ。「行列が短くなっていいんじゃないか」(40代の男性会社員)、「小銭はバイキンが付いていて汚いのだから店員が手を洗わずに小銭と食品を扱うよりもいい」(60代の男性)と買い物時にメリットを感じるという意見も多かった。
筆者が取材中に球場の敷地内を見た限りでは、極端に長い行列ができる、あるいは騒動が起きるといったトラブルは確認できなかった。球団のグッズを取り扱うショップ担当者は「体感としては、昨年よりもスムーズに会計ができている」と話す。現金不可についての不満を言う人や知らなかったと訴える人は「数人程度で、ご説明することで納得してもらえた」(ショップ担当者)。
中高年のファンからは、一部で疑問視する意見はある。「我々のような年寄りには分からない」(70代男性)、「現金不可は、やりすぎ。やっぱり現金がいい」(70代女性)、「現金が使いたい人もいる。キャッシュレスにしたい人だけ使える自由度を持たせたほうがいい」(50代男性)などだ。中には「地元の人がキャッシュレスに慣れたとしても、ビジターで球場に来た人が戸惑うのではないか」(50代男性)と対戦相手のファンに気遣う声も。なお、楽天ではビジターで来場した人などのために、Edyのカードをレンタルするサービスも提供している。
当日は白いジャンパーを着た楽天の係員が、楽天ペイの利用を勧誘していた。それを受けて、中高年のファンが初期設定に挑み、スマホの設定画面をのぞき込む姿も見られた。「楽天ペイの使い方に慣れてない中年の人がうまく操作ができてなくて、並んでいる人たちが『早くしてほしい』という雰囲気になった」(50代男性)という話も聞こえてきた。楽天は、店舗の従業員全員の研修を徹底し、サポートできる体制を整えたというが、操作に戸惑う新規ユーザーへのサポートは継続的な課題となりそうだ。
Edyの利用比率が約7割
グッズショップの担当者によると、昨年までの決済手段は現金が7割、Edyが2割、残り1割がクレジットカードや楽天ペイだったという。完全キャッシュレスとなった今年はどうなったのか。担当者は、まだ検証できていないと断りつつ、「Edyと楽天ペイで半分ずつ程度ではないか」と話す。
実際に、来場したファンはどの決済手段が使ったのか。それを知るための目安として、球場を訪れていたファン100人にアンケートを取った。最も多かったのはEdyで69人だった。来場者全員にEdyカードをプレゼントしており、会場の現金チャージャーも拡充したことで待ち時間なく利用できていた。そうした利用環境を整えたことが利用の多さにつながったと考えられる。親子で訪れていた40代男性からは「Edyカードなら家族で共有して使える」という声もあった。
次点が楽天ペイで23人。「カードをたくさん持つよりも、楽天ペイならスマホ1台でまとめられる」(20代女性)という点をメリットに挙げる人や、飲み物の割引やポイント付加の特典に引かれたという人も多かった。クレジットカードは8人だった。
現地を訪れていた楽天の三木谷浩史会長兼社長は、キャッシュレス化についてコメントし、「消費の活性化にもつながり、将来は技術を海外に輸出もできる」と意気込んだ。高齢者のファンも多い球場という場所で浸透させることに成功すれば、キャッシュレス社会の成熟に向けた大きな一歩となりそうだ。
決済データ活用で野球体験を進化、売り上げ増も期待
完全キャッシュレス化の狙いは何か、今後は何を目指していくのか。楽天ペイメント社長の中村晃一氏に聞いた。
改めて完全キャッシュレス化の狙いは。
政府はキャッシュレス決済の比率を将来的に40%に高めるという方針を掲げている。実現のためには思い切った施策が必要だ。こうした場を持つ我々が、キャッシュレスの成果を示すことが近道となる。完全キャッシュレスになってもデメリットはなく、むしろメリットが大きいのだということを証明したい。
新しいものに挑戦するのが楽天のコーポレートカルチャー。04年に50年ぶりの新球団を設立したのが良い例だ。自ら実行し、世の中を活気づけ、全国にキャッシュレスを広げる。
ファンに負担をかけることになりませんか。
楽天はイーグルスを愛すると同時に、東北のファンの皆様にありがたいと日々感謝している。だからこそ、まずは地元のファンの皆様に、キャッシュレスの便利さを知ってもらいたい。「これは便利じゃないか。こういう先端のものが使えるのは東京だけじゃない」と実感してほしい。
ソフトバンクもPayPayを福岡の球場で導入しました。
我々はQRコード決済だけではなくて、Edyも使えるし、クレジットカードも使えるようにした。正面からの対抗意識があればQRコード決済だけにしただろうが、そうではない。用途に合わせて使ってもらえる。総合力で日本のキャッシュレスを盛り上げたい。
球場で聞くと、Edyの比率が多く、クレジットカードの利用は少ないようでした。
クレジットカードの市場が50兆円強、電子マネーの市場が約5兆円と言われる。QRコード決済はまだ始まったばかり。それでも、この球場でEdyや楽天ペイを使ってもらえているのは、それだけの利便性があるからだ。野球少年がお小遣いを持って球場に来たときに、キャッシュレスを使ってもらえるようにするにはどうしたらいいか。それを考えて、今回は小銭のチャージ機も作った。これを別の地域でも使いたいという声もある。今回の取り組みを起点に、全国に広げていきたい。
今後の目標は。
より良い野球観戦体験を作りたい。例えば、試合を見ながら、飲み物を買いに行っている間にホームランを見逃してしまったら悲しい。キャッシュレスの購買データを分析して、ある場所で7回裏にビールを買いに行くファンが多いと分かれば、売り子がその時間に付近へ行くようにできるかもしれない。あるいは、7回裏に周辺の店が混まないようにチケットを発券するときに席をばらけさせるという方法もあるだろう。
キャッシュレスというと難しく聞こえるかもしれないが、そうではない。魚屋さんと主婦がコミュニケーションを取り、信頼を得るというのが商売の基本。決済は、あくまでもわき役にすぎない。まずは便利だと感じてもらい、使ってもらうことが大切だ。
球場で決済するときには楽天のポイントも使える。実はヴィッセル神戸で完全キャッシュレス化としたときは、ポイントによる支払いが1割を占めた。そんなにポイントを皆さん持っているのかと驚いたほどだ。ためたポイントを球場で使うという意識が広がれば、売り上げ増にもつながっていくはずだ。
(写真/難波明彦)