「絶対失敗できない」 必死の出店で勝負勘養う
ハイデイ日高会長 神田正氏(5)
西川口西口店はいまも同じ場所で「日高屋」に名前を変えて営業している
ラーメン店「日高屋」を展開し、あくなき成長を追い求めるハイデイ日高創業者、神田正会長の「仕事人秘録」。大家や保証金のハードルが高い物件への出店を、創業間もないころにどうやってクリアしたのでしょうか。
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3店目は大宮(さいたま市)を離れ、JR蕨駅(埼玉県蕨市)前に出すことにした。
弟たちを誘い込んだときに、将来のチェーン展開の夢を語りました。「来来軒」の看板を大宮から赤羽(東京都北区)まで、全部の駅前に掲げるぞ、だから手伝ってくれ、という論法でした。弟たちは全然信じてなかったでしょう。「そんなカネがどこにある」「人が集まるわけがない」。反論していました。でも結局、すべての駅前に出店できました。
そんないきさつもあって、当時は大宮から南に向かって、仕事の合間を縫って、物件を探して歩きました。情報誌などなく、足が頼りでした。
あるとき蕨の駅前で「貸店舗」の看板を見つけ、目の前の不動産屋に飛び込みました。遅い時間でしたが、おやじが店にいました。でも「飲食店は大家がOKしない」とつれない返事で、取り合ってくれません。保証金を尋ねたら「150万」と言います。じゃあ200万円出すから大家さんに聞いてみてよ、と頼みこみました。
すると翌日すぐ電話があって、大家さんが貸すと言っている、と。賭けをする気分でやったことですが、いい方に出ました。取引なんてそんなもんですね。
それからは毎晩、内装工事をやっている間じゅう、店の前に立ってひたすら人の流れを見ていました。うまくいくか、心配でした。
そうしたらある日、おまわりさんに不審者扱いされて交番に連れて行かれ、いろいろ質問されました。ここでラーメン屋をやるんだ、と説明したらわかってくれて、「あんた、ここ、売れるよ。人通りがあって、きっと客が入るよ」と励ましてくれました。それでようやく安心しました。