自分のラーメン店開く 大宮で深夜営業し繁盛
ハイデイ日高会長 神田正氏(3)
浦和のラーメン店をやめてからは大宮で転々とし鍋を振った。写真はイメージ=PIXTA
ラーメン店「日高屋」を展開し、あくなき成長を追い求めるハイデイ日高創業者、神田正会長の「仕事人秘録」。いくつかの店で働いた後、個人経営の「来来軒」を開業、成功させるまでの道のりを振り返ります。
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成り行きで、初めて店を持つことになる。
浦和のラーメン屋をやめて、大宮で何軒か、転々と鍋を振って回っていました。そんなある日、常連客の一人から「俺、今度、岩槻(現さいたま市岩槻区)の方でラーメン屋をやるんだけど、自分ではラーメンとか作れないから、あんたやってくれない?」と声をかけられました。
その話に乗ったのですが、店は2階にあって、客が入らない。その人は結局、手形が落ちなくなって手を引いてしまいました。一緒にやめるつもりでしたが、大家さんが「空けておいても仕方ないから、代わりにやってほしい」と言うんです。「やりたいけどカネがない」と応えると、大家さんは自分が保証人になって武蔵野銀行から借り入れてくれました。これが武蔵野銀行とのご縁の始まりです。
出前で稼ぐしかないと考えましたが、電話がありませんでした。加入権を手に入れるのに、順番待ちで半年はかかる、と言われて。どうしようもないので、弟(町田功・元ハイデイ日高専務)を口説いて、呼び寄せ、ご用聞きに行ってもらいました。近くに岩槻市役所があって、市民課でラーメン1杯、土木課でチャーハンとギョーザ、などと注文を取って回りました。
当時の1日の売り上げは4600円くらい。ラーメン1杯70円、ギョーザ1枚80円しないくらいでした。いまの日商は全店合わせて1億円ちょっとですからね。貨幣価値も違いますが、いまの姿を当時は想像だにしませんでした。
1年半ほどで岩槻を去り、大宮へ。
ラーメン屋が軌道に乗り始めたころ、大家さんが「今度は同じ2階のスナックを引き継いでくれないか」と言ってきました。「あんた商売うまいから大丈夫」などとおだてられ、引き受けることにしました。でも1年ほどでダメになりました。色気の絡む商売は難しいと痛感しました。