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ホンダで正社員になるが、辞めてしまう(1958年ごろ、一番左が本人)

ホンダで正社員になるが、辞めてしまう(1958年ごろ、一番左が本人)

ラーメン店「日高屋」を展開し、あくなき成長を追い求めるハイデイ日高創業者、神田正会長の「仕事人秘録」。その生い立ちと商売との出合いを振り返ります。

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5人兄弟の長男に生まれ、10代から家計を支えた。

父は戦時中、満州で敵を目の前にして手りゅう弾を投げ合うような激しい戦いを経験したようです。復員後は体調がすぐれなかったので母がゴルフ場のキャディーをして生計を立てていました。初めてアルバイトをしたのは小学6年生でした。やはりキャディーをして、客のゴルフバッグを担いで歩きました。この頃からの縁で、今はゴルフがただ一つの趣味です。

中学校を卒業後、機械加工の工場に就職でき、旋盤工になりました。でもその職場にはなじめず、すぐに辞めて、ホンダの季節工になりました。「スーパーカブ」の製造ラインで黙々と組み立て作業をしていました。製造ラインの不具合など、突発的な残業にも文句を言わず働いていたからでしょうか、工場長の推薦をいただいて正社員になることができました。何のアピールもしていなくても、努力をみてくれているんだと、うれしくなりました。

ずっと貧乏でしたから、これで一息つける、と安心すればよかったのですが、どうも仕事がつまらない。いっそ、自分で商売したい、という気持ちが募りました。その頃には弟も働き始めていました。家計の負担が少し減っていたせいもあり、お世話になった工場長には悪いと思いつつも、意を決して辞めてしまいました。

とはいえ、蓄えがあるわけではなく、商売のノウハウもありません。収入は得ないといけませんから、東京・新宿の歌舞伎町でキャバレーや歌声喫茶のボーイをしました。ゴルフの腕だけは自信があったのでレッスンプロのまねごともしましたが、偽物だとすぐにばれました。結局、20歳代前半までに、転々とした職は15くらいにはなるでしょうか。

埼玉県の大宮で、パチンコに明け暮れているときに、知り合いが「浦和のラーメン屋が人を探している」と声をかけてくれました。その店で働き始めたのがラーメンとの出合いです。

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